サイドカー

大河小説・サイドカー


『サイドカー』
=ショーロホフへのオマージュ=

下北文童(ブラフ・コリャノフ)・著
<(C)無断転載禁止2007年10月1日>


(1)
その日も酷寒の訓練だった。グリゴーリーは前夜からの微熱で半分ぼけていたが、
先頭のサイドカーに乗り込むと、隣の機銃手イワノフに笑いかけた。
「こいつさえ具合よきゃあ、なんでも来いってことさ」
弾が真っ直ぐに飛ばない機銃を与えられていたイワノフは、いつもの愚痴
を繰り返すと、煙草の煙を吐き出した。
「何でも使い込めば、磨り減るってことさ。“何でも”な」
「そりゃそうだ」とグリゴーリーは朝のあいさつのようになったいつもの返事を返した。
「こいつはエンジンのかかりはいいが、そのあと、走ろうとしねえんだ。
何でも使いすぎはいけねえな」。
「使い古し」の兵隊の群れが動き出した。強い煙草の香りが一帯にたなびいた。

(2)
いつもなら地平線が見晴らせる雪の演習場は、渦巻く霧との境に姿を隠していた。
兵舎からここに来るまでにグリゴーリーのバイクは2度エンストした。
落伍したサイドカーは、所定の場所を占める権利を失い、
演習場の一番北側のひどく足場の悪い場所に追いやられることになる。
射撃条件が最悪になることが判明したイワノフは明らかに機嫌が悪かった。
雪の中をスリップしながらやっとこさ北端の位置に着いたところで、機銃を乱暴に装填する音がした。
「ドイツ野郎の頭を撃ち抜くんだぜ。味方の“けつ”を撃つなよ」。イワノフがつぶやいた。
実際、新兵が演習で前方の友軍を撃ったことがある。霧のせいだ。
「ぼくちゃん、どこに撃っていいのか分からないの〜ってやつだ。“おかま野郎”がさ」。
左に並んだマカロフがげらげら笑いながら罵った。
「射的場じゃあねえんだぞってことよ」。展開したサイドカーが霧の中に消えていく。


(3)
「わが同志グリゴーリー、ところでわが党はいつまで戦争を続けるんだ」
演習の帰りにイワノフはおどけて話しかけた。機銃の演習的中率が上がり彼を上機嫌にしていた。
いつもより、5ポイントも良かったのだ。「馬鹿も使いようってやつだ」と言いながら
イワノフは雪でぐしょ濡れになった長靴で出来の悪い機銃を蹴り上げた。
「そうだな、いつまでかな」。グリゴーリーは気のない返事をした。
まだ微熱が続いていたし、こんな毎日にうんざりして答える気力も失っていた。
「へへ、おそらく100年やるつもりだぞ、書記長様たちはな。モスクワの御殿でふんぞり返ってろってんだ」
イワノフはそう言うと、唸った。
「もうじき終わるさ。ドイツ野郎の頭を一つ一つ撃ち抜いていけばな」
グリゴーリーは景気づけにそう言ってみせた。そして少し元気が出た自分に思わず苦笑した。
「上等のウオツカや、へたすりゃ連中はコニャックを飲みながら戦争ごっこをしていやがるんだぜ」
「連中ってのは書記長様たちと、そしてドイツ野郎もだ。どっちも同じ穴の何とやらってこった」
イワノフの舌が回りだした。

(4)
これから冬に向かうというのに、グリゴーリーの頭には最近、新緑の大草原がよく浮かんでくる。
微熱でうとうとしているとき、その光景はかげろうのように向こうからやってくる。
草の香りがする。霧に濡れた雑草の湿り気が体を包む。
遠くに立つ背の高い木は何だったか思い出せないが、この場所は知っている。
1917年に至る革命の道のりで、何百人と死んだ、数え切れない戦場のうちのちっぽけな一つだ。
そのとき白軍の士官だった父親が一度だけ、自分のかつての戦場を息子に見せてくれた。
父親は何も言わなかった。誇らしかったのか、憤っていたのか、それは分からなかった。
今見る大草原は、その戦場の幻影だ。
あれから何十年たつ?。息子のおれも、まだ同じ舞台で泥にまみれているというわけだ。
ドイツ野郎も書記長様も同じってことか。イワノフの言う通りかもしれない。
おれたちは果てしなく、いつまでも戦う民族なのかもしれない。永遠に。
三等品のウオツカが手に入った、と騒ぐ声がぼんやり聞こえた。
「起きろ、この野郎。こんなときになんだ」。突然肩をたたかれ、毛布をはがされた。
「酒だってことよ」。イワノフの無精ひげが目の前にあった。その口から実際、よだれが垂れていた。


(5)
女房に逃げられたセルゲイ中尉は時々、兵舎の入り口に立ってぼんやりと遠くを見ている。
そして、いつも「どうなると思う」とつぶやく。
「戦争のことですか、それとも中尉のことですか」
「そう聞き返してやるんだ。なあ、おれたちくたびれた兵隊に聞いてどうするんだ」
イワノフたちは陰でそう言って嘲笑った。「あんたが決めることだってな」。
イワノフは、遠くを見つめるセルゲイ中尉の不安げな、少し間の抜けた顔をまねて、
「どうなると思う」と言った。そして「なあ、かあちゃーん」と付け加えた。
連隊長が言うところのサイドカー乗りのがらくた小隊≠ヘ笑いで爆発し、そこで安酒の宴会は終わった。
セルゲイ中尉の半ぼけ状態の原因は、誰も知らない。
「中尉には大きな借金があって、本人にとっては戦争より重大問題だってさ」。
もっともらしい説がいつも流れた。
それでも、中尉が通りがかると、だれもが規則通りの敬礼をした。
すると中尉は、少し考え込んだ後、「実弾演習は金がかかる」とつぶやくのだった。

5日前に中尉は拳銃自殺を図った。そしておととい死んだ。
以前の女房が連隊に乗り込んできて、あらゆる遺品をかき集めて行った。
唯一、酒だけは残っていた。珍しい安物のスコッチとブランデーだ。
スコッチは小隊に回ってきたので、わずか30分ではあったが皆で乾杯を楽しんだ。
もちろんイワノフの饒舌が始まるほどの量はなかったので、すぐお開きになった。
ブランデーはヤミに流れて、連隊の兵隊の「通貨」代わりに流通した。
2日後には、手垢にまみれた「通貨」が、手から滑り落ちて割れたという理由で姿を消した。

(6)
戦線はまったく膠着状態だ。貨車で運ばれてくる傷病兵が絶えない。
毎日のように着くその貨車も日を追って編成が長くなる。
まだ冬だからいい。夏は傷病兵の傷口にウジがわいている。それを取り去る者もいない。
どういう訳か傷病兵が酒を持っている。貨車の上から担架で下ろされながら投げて寄こす。
イワノフは警備兵の目をかすめて2、3本せしめてきた。
「こいつは連中の土産ってことだ」。飲み回しながらイワノフは言い訳をした。
そして「今度は俺達が持ってくる番かもな」、その軽口を聞きながら、皆急いで飲んだ。
「前線に行くときは、新品のドンパチ(機銃)を持って行くからな」。
イワノフが景気づけを言った。
「新品だろうが中古だろうが、弾が曲がって行くのは間違いねえや」。コワロスキーが笑った。
イワノフがつばを飛ばしながらわめいた。「馬鹿言うな、小隊一の名射撃手さまだぞ」
そのとき、カチンスキー准尉が部屋に入るなり高い声で怒鳴った。「全員整列」。
どたどたする音が響き、あわてて着衣を直しながら直立した。イワノフはすばしこくよだれを拭いた。
「命令、グリゴーリー軍曹、イワノフ曹長、明5時出動。以上」
カチンスキー准尉の靴音が遠ざかるのを聞きながら、「乾杯」の声が響いた。

(7)
前線に向かう16両編成の列車は、兵で大混雑していた。補給の武器、食材などで満載の貨車もある。
イワノフは3度目の前線行きにすっかり慣れた様子だ。「酒が3本しか持てなかったぜ」とわめいた。
防寒コートと新しい手袋、帽子を身に着けた古参兵は新兵のように見えた。
軍歌「ウラルを越えるわが将兵」が各車両から響き始めると、列車は動き出した。
「今度は帰って来れない奴も相当いるだろうぜ」。イワノフは、古参兵の「勘」をひけらかした。
「おれたちも含めてな」と、グリゴーリーは言った。
「ま、牛のよだれのようにだらだらやっているうちにみんないかれちまうさ」とイワノフは言った。
「8時間後に前線区域。警備兵を除き休憩」と、途中まで引率のカチンスキー准尉が叫んだ。
機関車の苦しそうな蒸気の音が雪原に響く。列車の中は静かになっていた。
「6時間後に装備点検、弾薬を配給する」。カチンスキー准尉がまた叫ぶと、再び静けさが列車を覆った。

(8)
列車の急停車の音で出撃兵は皆目を覚ました。
下車、整列、点呼、装備点検、給食が終わると、輸送トラックが現れた。
歩兵の輸送車と前後しながらサイドカー部隊が続く。
「終点はどこかな」。後ろのサイドカーからコワロスキーが大声で言った。
「ベルリンだってことよ」とイワノフが叫んだ。
「うまいビールが待っているのかい。そいつは最高だ」とコワロスキーが歌うように言った。
かすかに砲撃の音が聞こえた。イワノフが、思い出したように機銃の部品をガチャガチャ言わせた。
カチンスキー准尉によると前線は膠着しているものの、塹壕戦は稀になったという。
消耗戦に疲れたドイツ軍は次第に圧迫されて後退を始めている。
大規模な追撃戦になるらしい、と士官はうわさした。
「どっちにしろ俺たちはここで何年も同じ仕事をしてきたんだ」とイワノフは呪文のようにつぶやいた。


(9)
配備の前線は平穏だった。毎日10数人の戦死者のほかは大きな動きはなかった。
小さな衝突を繰り返しながら、ドイツ軍は後退を始めた。追撃戦が始まった。
イワノフの新品の機銃は素晴らしく良く働いた。射撃は的確で、故障もなかった。
だが、後退する敵の抵抗も侮れなかった。
戦況指揮集会で「軍隊の本当の強さは撤退するときに分かるんだ」と、ルシチェンコ少尉は言った。
「整然とした撤退は、攻撃時以上の士気の維持、兵站の円滑な能力発揮が必要だからだ」
少尉の説明に、イワノフは「俺たちが以前逃げまくったときは、まるで二日酔いのゲロ状態だったな」とつぶやいた。
不思議なことに、整然とした撤退に合わせて、こちらも整然とした追撃が続いた。
イワノフの機銃は、サイドカーの側車をビリビリ震わせながら火を噴いた。
とは言っても、撤退するドイツ軍ははるか彼方に動き、追撃軍はそれを見守る母親のような立場だ。
機銃の射撃は、威嚇が目的であって、追撃していることの証明を相手に知らしめるだけのことだった。
「実弾はもったいねえから、空砲がいいな」と、イワノフは冗談を言った。
それでも、敵の小型野砲と重機関銃の定期的な反撃は、時間割に合わせたように行われた。
流れ弾でサイドカーの機銃手が一人死んだ。重機関銃弾は肩から上を吹き飛ばしていた。
夜間の奇襲も行われたが、敵の防御は固かった。

(10)
グリゴーリーの手元に、ドイツ兵の拳銃が鈍い光を放っている。
次第に増え始めたドイツ軍の遺棄された戦死者。
敗走するドイツ軍の鉄の規律も緩み始めていた。遺棄兵がそれを物語る。
そのドイツ兵から身ぐるみはがれた品の数々が、ソビエト兵の汚れた軍服を飾っていた。
グリゴーリーは、目の前の遺棄兵の死体から拳銃を剥ぎ取ったイワノフからそれを渡された。
「“いわゆる”戦利品ってやつだな。おたくもこういう上物を持ったほうがいいぜ」。
イワノフが、ずっしりと重みを感じさせながらグリゴーリーの手に握らせた。
「弔いをしとかないとな」と言って、イワノフはドイツ兵の顔にスコップで土を掛けた。
それは、ロシアの大地で行われる葬式に似て、もっともらしくも手抜きの儀式だった。
指輪を三つもしているソビエト兵。上等の革でカバーされた手帳をせしめて喜んでいる学生上がりの兵もいる。
国に帰れず、弔いもろくにされずに遺棄された兵は、明日の自分たちの姿でもあった。
身ぐるみをはぎつつ、ソビエト兵たちはぶつぶつ唱え、腐りかけた遺棄兵に心ばかりの葬儀を施した。
夕日が沈みかけて急に冷え込んだ大地に、ガラガラと遠くを行く戦車の音が消えていった。
(11)
追撃戦が終わってしばらくすると、側車大隊は後方に下げられた。
のんだくれ大隊といわれる兵隊の群れは、しばらくの休息期間に本領を発揮した。
ドイツ兵の残した壊れた武器、ラードの缶詰、破れた防寒具、精密な文房具が注目を集めた。
武器は修理して試射したが、弾薬も無く、本来の性能も発揮できなかった。
5缶のラードは2日で皆の腹の中に収まった。
防寒具は、繕いに精を出す古参兵の手で、あっという間に新品同様になり、闇で流通した。
金属の輝きをところどころに見せるドイツ製文房具は、勲章のように古参兵の胸を飾った。
時々咳が出るグリゴーリーは、ドイツ兵の捨てた雑嚢の中から、解熱剤に似た錠剤を探しては呑んだ。
気のせいか、楽な気分になった。
鈍い色の夕日を眺めながら、毎日が暮れていった。
(12)
中年のポリャノフは兵站・輸送兵だが、サイドカーの部品や食料の配給に中隊を訪れても目立たない存在だ。
輸送伝票に書き込んで決裁を受けると、たばこを1本吸って、そのまま帰る。
とがったあごと細い目は、いかにも抜け目がなく見えた。みんなは商人だと断定していた。
イワノフたちが例によってヤミの酒で宴会を開いているところに、どういうわけかポリャノフがいた。誘い込まれたらしい。
「おまえさんは商人らしいが、商売はどうなってんだ」とイワノフが聞いた。
ポリャノフは「葬儀屋といわれている。この戦争で大もうけってわけだ」とぼそっと言った。
「そりゃ、おめでてえぜ。この戦争でな」とイワノフはがなり立てた。だが「かあちゃんに任せているのか」と穏やかに言い直した。
ポリャノフは、少し考えてから「だれにも任せてはいない。こんな仕事は任せられるものじゃないんだ」とつぶやいた。
そういうものか、とその場のみんなが聞いた。
「死人を送り出すのは半端なことじゃないからな」というポリャノフの言葉に、その場は半分納得しながらも腑に落ちなかった。
「生きて送り出して、死人で迎える。つまり死人を送り出しているってことだ」とポリャノフ。
いぶかしがる皆にポリャノフは「おれは教師だ。少年兵を32人送り出し、14人死人で迎えた。だから葬儀屋だ」と言った。
イワノフたちは酒の杯を手に沈黙した。ポリャノフは「うまかった。ありがとう」と言うと、会釈して帰って行った。
兵站・輸送のポリャノフが前線に向かう歩兵に志願したという話が中隊に伝わったのは1週間後だった。


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