世田谷物語

世田谷物語

(無断転載ヲ禁ズ)

下北文化堂さんの「世田谷物語」(随時寄稿)

★五寸釘

 五寸釘は猟師の村田銃にも匹敵する子供の必須アイテムだ。それで釘打ちをする。一人が釘を地面に投げつけて刺す。もう一人はその釘の根元に向けて同じようにガッと打ちこむ。そして相手の釘が倒れれば、その釘が戦利品になる。器用な子供は十本近い五寸釘をせしめていつもジャラジャラと持っている。
 釘の先は常に鋭利に研ぎ澄まされている。石を砥石代わりに、丹念に研ぐのである。
 気まぐれな子供たちは、その釘の一本をレールの上に置く。電車が行き過ぎると、釘は幅一センチほどの平らな板になる。その鉄の板をまた研ぐ。するとかなり鋭いナイフになるのである。五寸釘が生み出す子供の世界は、なかなか奥深いものがあった。

★世田谷の風呂屋(981018)

 世田谷には戦後多くの風呂屋があった。世田谷の中流サラリーマンの家庭には内風呂があっただろうから、風呂屋に行くのは風呂を持たない家庭の人々である。当時は持ち家がない家庭が多かったから風呂屋は大いににぎわった。
 こどもが十円かそれ以下の料金の時代もあったように思う。午後7時ころの風呂屋は客でいっぱいで、やかましい子供たちも大勢いる。子供たちの間では、ゴムでスクリューを回す木製の潜水艦を持ってくるのが一時はやった。ゴムを巻いて湯に離すと、潜水していく。風呂屋が潜水艦の試験航行のかっこうの場になっていた。うまく潜水する船を持っている子供は得意そうだった。時には電池式の航空母艦を持ってくるのもいたが、これはさすがに注意されていたらしい。
 風呂から上がると、力道山のプロレスとバヤリスオレンジのコマーシャルを番台の白黒テレビで楽しんだ。1時間も陣取っていることも多かったが、追い出されることはなかった。おじさんたちは番台から買ったチューブ入りのポマードを頭につけ、その臭いが広がっていく。そして子供たちは星の降る夜道を帰っていった。

★二十四の瞳(980611)

 下北沢の近くには昔、多くの映画館があった。オデオン座、東映、日活・・・。チャンバラと洋画と各館いろいろ。昭和二十七年ごろ、三本立て六十円だった。三本のほかにニュースがつく。画面は大方、白黒だ。竹脇昌三が独特の名調子で「物価高にあえぐ主婦が街頭でデモをしました」などと伝える。トピックは海外ものだったりしてそれがけっこう面白く、「おまけ」にしてはうれしかったものだ。
 高峰秀子の二十四の瞳は、松竹の製作。木下恵介監督、主演・高峰のほか、笠智衆、月丘夢路、小林トシ子など出演という。小学四年生ころかあるいはもっと後に学校でオデオン座に見に行った記憶がある。
 島の小学校で十二人の子供を教えていた高峰演ずる若い女教師。子供はわんぱくで、いたずらに引っ掛かって高峰は足を折ってしまう。やがて戦争になる。何年かして戦争が終わり、開いた同窓会。高峰は十二人の教え子を待つが、何人かは欠席する。戦死した者たちである。
 一人、白い杖をつきながら参加したかつてのわんぱく坊主がいた。戦争で失明したが、やっとの思いで同窓会に駆け付けたのであった。彼は高峰に戦争の出来事を話す。そして昔の記念写真を手でさわりながら当時のことを思い出し、なつかしそうに説明する。それを聞く高峰はあまりの不憫に涙する。戦地に散った子供たちのことも脳裏を駆けめぐるのであった。

☆駅前

 昭和20年代の日本には、ゆったりした時が流れていた。夕方雨が降ると、私鉄の駅には子供たちが傘を持って集まった。帰宅する父親を迎えに出るのである。電車が着くたびに多くの人が改札から吐き出されてくる。その中に自分の父親の姿を探す。やがて父親が出てくると、ほっとして一緒に帰るのである。
 今時、そんなことをする子供はいない。塾で勉強をしているか、テレビの前にいるか。
 駅前の据え付けの白黒テレビで力道山の試合があると、わざわざ見に行った。おそらく500人以上の大人や子供が力道山の空手チョップにわいていた。力道山の空手チョップは、戦後の僕たちの希望だった。戦争に負けたことしか知らない大人や子供にとってそれは自己の存在を確認する作業だったような気がする。
 傷痍軍人が駅前にいることもあった。一人はアコーデオンを弾き、片腕を無くした一人はじっと正座して片手を地面につき、何時間でも平伏し続ける。たまにだれかが小銭を置いていく。力道山が登場したころは、傷痍軍人は少なくなっていたが、僕たちは、戦争の残した現実と、テレビの中の希望の両方の「現実」の中で戦後という時代を知った。
 静かな夏の夜、駅前の商店街は煌々と電気をつけ、夕涼みの家族連れでにぎわった。ウインドウショッピングしながら、母親は月賦で買えるものを見つけては熱心に買うべきかどうかを考えた。当時は月賦といっても毎月500円程度の支払いだったが、家計にとっては一大決心だった。
 そんな静かな時の流れの中で、人々は十分幸せだったように思う。今、夕方家に帰れる父親はほとんどいない。時代を伝える傷痍軍人もいない。貧しい家計と相談しながら大切なものを買うときめきもない。経済大国への道は、暖かな家庭と子供の世界にあふれていた世田谷の街を、土地ころがしと金ころがしの街に変えた。

☆子供たち

 六年生の同級生に在日朝鮮人の女の子Hさんがいた。背が高く、日焼けした顔をして、髪の毛はボサボサで、時々いじめられて泣いていた。教室の隅でいつも静かにしていた。やつれたような顔に、こちらをうかがうような目があった。
なぜかHさんは、学校が終わると、ドッジボールも楽しまず、そそくさと帰っていく。
 ある日、下校途中、Hさんを見た。道端にアンペラを敷いて、その上に何かを幾つも置いて、その後ろにしゃがんでいた。小物の雑貨だと思うが、Hさんは道端でそれを売っていたのだった。僕らはHさんに気がつき、戸惑った。しかし、道は彼女の前を通っている。僕らは彼女を見ないようにして通り過ぎた。彼女は、下を向いて顔を隠していた。
 魚屋の息子Sは、時々魚臭いにおいを教室に漂わせていた。それをからかう奴がいた。が、Sが学校からとんで帰って店の手伝いをしていることが分かって、だれもからかうのをやめた。
 Mさんは百合のように清楚で色白で、今風に言えばブルック・シールズだった。白い顔に深紅の唇が際だっていた。そして今の美智子皇后のような話し方をして、その大きな目をじっとこちらに向けるのだった。ただ、心臓が悪く、手術をしたこともあった。そのためなのか、さびしそうな影をただよわせていた。男の子のだれもが気にしている女の子だった。
 自衛隊員の息子、Iは、クラスでも一番の賢いひょうきん者で、ある時ガラス繊維を持ってきてみんなに見せ、びっくりさせた。戦後十年ほどの時代にそれは珍しかった。ある時は、声を出して吹くとラッパの音が出る、小さなトランペットを持ってきた。こいつはどこからこんな物をもってくるんだ、と不思議だった。
 Yの親父は歯医者で、戦時中は戦車兵だったという。その親父はルノーを持っていて、時々乗せてもらった。戦車兵らしく機械に強い親父で、Yも機械物が好きだった。Yも歯医者になった。
 今時、卒業式に泣く親はいないだろう。だが、僕らの卒業式では、親がみんな泣いていた。なぜ泣くのか不思議だったが、いま考えると、空襲、食糧難、人によっては父親の抑留・死亡を乗り越えて育てた子供の姿を見て泣けたのだろうと思う。校長のあいさつも「戦中、戦後の苦難にもかかわらず、よくここまで育てていただいた」というねぎらいの言葉だった。

☆三等国

 戦後の小学校では、日本は「三等国」と教えられた。ぼくらはもともと日本が負けたと分かって小学校に入学したから、学校の先生に改めて「公式に」そう宣言されると実に惨めな思いをした。しかし、実態はまさに三等国だったから、あきらめるしかなかった。
 「日本は猿まねしかできない国で、工業製品は安かろう悪かろうなんです」と先生は教えた。これも子供のプライドをひどく傷つけた。でも実態はまたそうだったからあきらめた。
 ところがその後十数年もすると高度成長時代になって、今度はえらく鼻息が荒くなってきた。挙げ句の果てに、「アメリカに学ぶものはない」なんぞと言い出したから、これにもびっくりした。ほんとかい、と思った日本人は多かったはずだ。
 ぼくらは、戦後のインチキな時代もその後の羽振りのいい時代も見ているから、国の歴史観というものはあちこちに振れているものだということを知った。だから、日本は今、こういう国だぞ、と騒ぐ声がしても、もうちょっと考えてみたらどうだと言うしかない。
 だいたい、一億二千万人もの人間が暮らしていて、日本はこうだということ自体に無理がある。こうじゃないよ、という生き方をしている人間もどっさりいるのだから。
 戦後の大人たちも、しばらくは恥ずかしそうに下を向いて暮らしていた。もう戦争という「政治」はこりごりだ、と考えていたようだ。そして生活のためにがむしゃらに働いた。その先で、これからの日本をどうしたらいいのかを考えることになっていたはずだ。ところが、経済成長の大きな力は、そんなことを考えることを許さないほど日本人をまた追い立てた。そして今につながっている。
 日本はだめだ、日本は立派だと、極端な論議が平行線になったまま日本人のアイデンティティーがあやふやなのは、じっくり考える機会がなかったためである。憲法の問題にしろ、対韓国、中国の問題にしろ、結論が出るはずがない。戦後のスモッグも排気ガスもない、やけに静かな青空を見てなにかを考えようとした日本人が、それをやめてしまったことが、もう一つのやっかいな事の始まりだった。(97.09.15)

☆焼け跡

 戦後の東京の空はいつも青空だったような気がする。
遠くからかすかな爆音が伝わり、やがて頭上に至って、太陽に近い高空に銀色の飛行機が浮かんだ。米軍の飛行機だった。大きく手を広げたようなB29も飛んでいた。時には編隊を組んで。
子供心に日本が負けたことは分かっていた。焼け跡には人とも馬とも分からぬ太い骨もころがっていたから、子供たちの足もとから空の上まで、戦争に負けた印がしっかりあったのだ。そこがぼくらの世田谷だった。
 軍用機の遠い爆音を聞きながら、草むらから拾い出した骨を振り回して遊んだ。時にはコンクリートの柱にたたきつけたが、その骨は決して砕けなかった。
 夕方にはコウモリが飛んだ。低く、高く、頭をかすめるように。そして黄昏時、カレーライスのにおいが子供たちを我が家に走らせた。
 そんな街にはいつも、なにか悲しげでありながらほっとした空気が漂っていた。リンゴの歌、青い山脈、浪花節、のど自慢・・・。音の悪いラジオから遠く近く流れる音がいつもあった。もうこれ以上悲しいこともくたびれることもないのだから、という安堵の声のように。

☆だるまさん

 だるまさんと僕らが呼んでいるおじさんがいた。だるまのようにひげを生やして、時々僕らが遊んでいる道を通りがかった。怖いおじさんだといううわさもあったから、子供たちは思わずわきによけて見送ろうとした。でも、だれかが小さな声で「だるまさん」とつぶやく。だるまさんはこっちを見る。僕らはぎょっとする。逃げる構えをする。そこでだるまさんは目を大きく開く。僕らはもうだめだ、と思う。すると、だるまさんは「おうーー」と言いながら大きな口で笑った。そしてゆっくり去っていく。
 だるまさんは復員軍人だったという。ひげを生やしていたから、僕らには年寄りに見えたが、実は四十ぐらいだったのかもしれない。昼間、道をぶらぶら歩いていくのだから、サラリーマンではなかったようだ。煮しめたような色のシャツとズボンの姿だった。そのころはだれでもそんな格好だったが、ひげがあったから子供には怖くてみすぼらしい人間に見えた。でも大きく開いた目は、なにもこだわるものはないよ、というあっけらかんとした色をしていた。僕らは怖がりながらも「だるまさん」と呼びかけ、大きな目の後の笑顔を見るのが癖になっていた。(97.09.07)

☆マッカーサー

 気がおかしくなったおばさんも時々道を通った。片足を引きずるようにしながらやってきた。いつも手提げを持っていた。子供は残酷だ。「・・・・おばさんだー」とはやしたてる。すると、おばさんは手提げを振り回し、意味不明の言葉で怒るが、すぐに歩いていった。その時必ず激しい声で独り言を言うのだった。「マッカーサー・・・、マッカーサー・・・」。
 後で聞くと、おばさんの息子は戦死したのだという。「マッカーサー・・」は、息子を殺した者への恨みの叫びだったのだろうか。
 そのころの僕らにはそれがよく分からないから、いつもおばさんを怒らせていた。昼下がりの暑い照り返しの道に「マッカーサー・・」の声が遠ざかっていくのだった。

☆給食代

 小学六年生の同級生Kは、給食代が払えなかった。空襲で家族を失ったのか、姉さんと二人暮らしで生活は大変だったようだ。担任のS先生がかなり長い間立て替えていた。しかし薄給の先生がいつまでもできることではない。ある日、先生は「お姉さんによく話して、何とかしてもらいなさい」とKに話した。翌日から、給食の時間になると教室からKの姿が消えた。
 Kは校舎の裏で時間つぶしをしていた。じっと足を組んで青い空を眺めていた。悲しかったのだろうか。いや、動くと腹がもっと減るから、体を動かさずにいたのだと思う。悲しいのは耐えられる。空腹には耐えられないのだ。
 姉がいる自宅に戻ることもあった。「家で食べてくる」ということになっていたが、家に帰っても食べることはできなかったのではないか、とみんな思っていた。Kは体が大きいだけに、昼めしも食えない悲劇が悲しくも妙に滑稽にも思えて、だれもなにも言わなかった。
 そのころ、給食代は一ヶ月300円だった。(97.09.07)

☆ヤミ市

 戦後しばらく、どこにもヤミ市があった。駅裏の大きなヤミ市は、僕らの生活を支えてくれた。ヤミ市といっても戦後のどさくさを過ぎると違法なヤミの市ではなくなり、マーケットの機能を持ち始めていた。ただ、だれもが、いつまでもヤミ市と言っていた。
 昭和25、6年ごろ、そのヤミ市の駄菓子屋は、すでにおそらく60代後半とも見える老夫婦でやっていた。1円か2円の目玉の菓子は、細いガラス管に赤や青の色をつけたゼリーを入れて固めたもので、一方の口から吸うとニュルニュルと口に入った。甘くて、そしてゼリーのような感触は僕らの知らない世界だったからとても人気があった。50銭の菓子もいっぱいあった。薄いせんべいや、真っ赤なニッキなどがそうだった。
 持っていく金は大方10円か5円。20円も30円も持っている子供は珍しかった。時には2,3円を大事に握って行ったこともある。
 成人してから、ヤミ市に行ってみたら、駄菓子屋も老人夫婦もいなかった。しゃれた店が並び、魚屋の大声もなくなっていた。客の間にも、この間までの、かつかつの暮らしぶりは実はおいらの本当の姿じゃないんだよ、という顔が増えていた。時代ってやつは、忘れるということなのだとわかったのだった。(97.09.07)
(つづく)



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