Y なぜ伊那市ではざざ虫が産業となったのか
ところで、どうして伊那市ではざざ虫が産業の一つとなり得たのだろうか。
虫の佃煮を商品として売ることは、前述のとおり「かねまん」さんによれば大正3年(1914)には蜂の子の販売が始まっている。
その当時、蜂の子は珍味と言うよりは滋養強壮の妙薬と言った意味合いが強かったようだが、いまに続くこの個性的な商品開発の発想はどこからきたのだろうか。
それを私は伊那市街の成り立ちに起因すると考える。
伊那の街は歴史が浅い。というのは、江戸時代の伊那地方の中心地は現在の上伊那郡高遠町であり、その頃には伊那の街はまったく存在しないからである。
江戸時代に高遠藩の城下町高遠が栄えた頃、今の伊那市街は天竜河原に肩を寄せ会うように暮らす寒村があるのみであった。
明治維新後も明治時代の初めまでは高遠が政治経済の中心であったが、明治時代も中・後期になると、警察署(明治19年=1886)、郵便局(同18年=1885)郡役所(同22年=1889)等が伊那村に設置されて政治の中心が徐々に伊那へ移ってくる。
同時に、明治28年(1895)三州街道の開通、同33年(1900)の上伊那銀行創設、そして同45年(1912)の伊那電鉄の開業等によって経済の中心地も一気に伊那へと移ってくる。
こうして現在の伊那市坂下、荒井を中心に伊那の街は形成されたのである。
このように伊那の街は何もない所にそれまでの権威(つまりは江戸時代の権威)に束縛されない、明治と言うまったく新しい時代を背景として生まれた街なのだ。
新しい街には新しい商売が生まれ、または入ってきて育った。そこには旧態を脱し切れない街にはない活気が満ちていた。そして、それを証明するかのように長野県下の多くの街から、商家の子弟が伊那の街へ見習い奉公に来ていたとのことだ。
そして多くの場合、こうした新しい時代には新しい発想と独創が許されることは歴史が証明している。その発想・独創の一つが蜂の子の佃煮の商品化ではなかっただろうか。
「虫の商品化」がなされたのが大正3年(1914)、何もなかった所に造られた街「伊那」がこの地方の中心街となって行く大きな要因である伊那電鉄開通が明治45年(1912)である。この時代の一致は見逃せない。
やはり伊那の街の成り立ちが、ざざ虫を含めた昆虫食の商品化、産業化を促したのではないかと私は考える。今まで考えもしなかった斬新なアイディア、そしてそれを実行に移せる街も店も商人も何もかも新しい環境…。「虫の商品化」は産まれたばかりの若い伊那の街のエネルギーと躍動と柔軟性が産んだ産業だったのである。
前述の通り、蜂の子は発売当初の大正3年(1914)は滋養強壮の妙薬として販売されていた。虫の効能については後述するとして、80年以上昔に発売が開始された商品がほとんど形を変えず現在に残っていることは珍しいのではないだろうか。そしてその延長線上にざざ虫の佃煮があるわけである。
ただし、「虫の商品化」が産業として成り立つ過程において、商人たちがただ漫然と店先に蜂の子、ざざ虫の佃煮を並べていた訳ではない。「かねまん」のご主人池上篤一さん(故人)によればざざ虫を高級珍味として売り込むために幾度となく東京は赤坂などの料亭に足を運び営業をしたとのことである。
これがざざ虫が今に残る決定的なポイントなのである。なぜなら、ざざ虫を単なる地域食品として漫然と店頭に並べて商売していただけならば、ほかの地域と同様に時代の変化により食品としてのざざ虫は失われていたに違いないからである。
限られた地域の特異な食品にプラスアルファの付加価値をつける。これこそが全国的に、いや世界的に失われつつある昆虫食を残してきた最大の要因なのである。
このような過程と努力を経て現在、伊那市ではざざ虫は一つの産業となっている。原材料としてのざざ虫と佃煮となったざざ虫だけの単純計算だけで、その規模は毎年数千万円の産業である。派生する業務も算入すれば億となるであろう。しかも毎シーズンである。
やはり、ざざ虫を単なる地域食から「土産物・珍味として商品化」した商人がいたからこそ、そうやって産業となったからこそ、ざざ虫は伊那に存在し、これからも存在し続けるのである。
それは伊那の街の成り立ちが生んだ産業であり、伊那の街の成り立ちが守った、他地区では失われてしまった貴重な伝統文化なのである。
Z 美味いから食べる―虫の栄養学―
現在昆虫食習俗を残す地方は「原始時代から続いている習俗をいまだに残している地方」と考えるがいかがなものだろう。そして、きっとその地方では「それ」が美味いものであるから残ってきたのである。と、考えるがいかがなものだろうか。
江戸時代の飢饉の記録などを見てもわかるが、喰う物が無くなれば人間は何でも喰う。その、何でも喰う人間が今、食文化としてしている物は、その中で美味いものが残ったと言えるのではないだろうか。
インド洋にクリスマス島と言うオーストラリア領の島がある。面積135平方qの内、九割が熱帯雨林と言う絶海の孤島だが、そこでは雨期にレッドクラブと言う、正に赤い蟹が島の中心から海岸へ向かって大移動する。そして蟹たちは海岸で繁殖活動をした後、再び山へ帰る。
テレビなどでよく紹介されるからご存じの方も多いと思うが、その大移動たるやハンパな物ではなく、なんと一億二千万匹が移動すると言うのだから正に町中が赤い蟹に占拠される状態となるのである。
さてこのレッドクラブは恐ろしくまずいとのことである。噂によるとその肉は石油臭く、文字通り煮ても焼いても喰えないそうだ。
世界一の蟹好き民族である日本人が食べないところを見ると、その蟹はきっと世界一まずいのだろう。これではレッドクラブの食文化など起こりようもない。したがって食品流通産業なども起こりようもない。そこに食文化など起こりようもない。
ただし、その赤い蟹の大移動見たさに観光ツアーが成り立つかのしれないが…。
さて、話をざざ虫に戻そう。
ざざ虫という川虫を唯一食べる地域「伊那」は、捕獲するにも、調理するにも決して簡単、楽ちんではないざざ虫を食している。それは美味いからだ。
私はざざ虫は美味しいと思うし大好きだ。実は今もいただき物のざざ虫をつまみながらの執筆である。これがなかなか後を引いてついつい食べ過ぎてしまう。
「かねまん」のご主人池上さんは天竜川のざざ虫は特別に美味しいと言う。ならば、天竜川のざざ虫は他の川のざざ虫と違って美味いから産業になり得たのか? これについてはいまのところ回答の術がない。しかし、美味いから、珍味だから土産物になり得たのではないだろうか。そしてざざ虫の産業化は伊那の街の成り立ちに起因すると考えるのは前述のとおりである。
ただし、前に書いたとおり虫の商品化の第一号である「蜂の子」の商品価値は「滋養強壮」から始まっている。そこで、虫の栄養価をここで探り、なぜ商品になり得たかを考察してみよう。
雪印乳業発行の「SNOW」と言う冊子の1996 APRIL bS05は「珍味探究」と題して世界の珍味について考察レポートが載っている。
その中の「珍味と栄養」と言う項に、共立女子大学教授の泉谷希光氏による珍味の栄養学についての話がある。
その一部を抜粋すれば、
「かつての栄養欠乏時代の日本では、脚気や夜盲症のようにビタミンB1やA、ミネラル不足からくる病気が多かった。欠乏が常態化している体にビタミンやミネラルが入ってくると、即時的に効果が表れる。いなごが珍重されたのは、食べた後に劇的に症状が緩和されることを栄養欠乏時代の日本人が実感していたためだ。」
とある。
これこそが虫が商品化された理由そのものであると私は考える。
現代社会の栄養過多の日本人には、昆虫食によって泉谷氏の言う即時的な身体へのプラス効果は実感できないものであろう。しかし、慢性的な栄養欠乏時代の日本においては、蜂の子と言う滋養強壮の妙薬が劇的な効果を表わしたのである。
つまり今、テレビで盛んにCMが流れる栄養ドリンクやビタミン剤は、正に現代社会における「蜂の子」なのである。
しかし、蜂の子を食することによるその効果は誰もが認めるものであったが、当時の流通事情、そして蜂の子の絶対量の限界、そして虫を食するという特異性により滋養強壮の妙薬「蜂の子」は全国的な「妙薬」とはなれなかった。よって地域性の濃い珍味としての意味合いが強くなっていったと考えられる。
しかし、この「妙薬」ということが大きなプラスアルファであり、虫の商品化に大きく貢献し現在に至るのは前項で考察した通りである。
こうして戦時中の食糧難時代のざざ虫の大量消費を経て、地域性の濃い珍味の次なる担い手としてざざ虫が登場することとなるのは前述のとおりである。
今のところざざ虫の栄養分析ができていないのが残念であるが、いなごと同様にビタミン、ミネラル類が豊富であることは確かであろう。しかし、ざざ虫は蜂の子とは違い商品化された当初から珍味としての位置づけがされ、高級珍味として現在に至るのである。
[ 記述として残る昆虫食
古い記述として残っている伊那の昆虫食等について触れてみたい。これによって、現在発見されているざざ虫に関する記述については「総まとめ」ということになると思う。
@「冬ごもり悪物食いをおぼえけり」
前述した商工観光課に残された古い新聞記事の中の一つに次のものがある。
昭和38年2月20日付のサンケイ新聞
「冬ごもり 悪物(あくもの)食いを おぼえけり 一茶
悪物とは言うまでもなくざざ虫のこと、魚や野菜に乏し い雪国のごちそうだった…」
北信濃の俳人、小林一茶を知らない人は少ないと思われるが、この一文が本当のことなのか。
小林一茶の全集「一茶全集 信濃教育会刊」をひもといてみた。
すると、この句は句集「おらが春」にも掲載されている句で、全集の中にも言葉を変えた工夫が見られるものが数句散見できる。
例えば、
「冬籠り悪く物喰を習けり」(文政2年 おらが春)
「冬籠り悪もの喰いのつのりけり」
(文政6年12月15日 右の句の改案)
などである。
同全集によれば
「悪く物喰=四ツ足(獣肉)を喰うこと。仏教では肉食を禁 じたので悪物と言う」
とある。
他の句には「悪もの喰い」が「いかもの喰い」となっているものもある。「いかもの喰い」とは「悪もの喰い」の同義語であるが、ねずみ、蛇、虫、など人が食べないものを好んで食べる、といった意味もある。
しかし、これでは悪物がざざ虫であるという解釈までは到底行き着くことはできない。よってサンケイ新聞の解釈は違うようである。
第一、昆虫食が江戸時代の信州にあって「悪もの喰い」「いかもの喰い」だったのか? それ自体疑問である。
ただ、一茶が文政二年に「習いけり」だった悪物喰いが、四年後の文政六年には「つのりけり」と度を増しているのがおもしろい。やはり、「うまいものはやめられない」と言ったところかと思う。
A「酒酌や虫を肴にさし向い」
俳句と言えば伊那には井月がいる。井月全集にざざ虫について載っていないか調べてみた。すると井月本人の作ではないが、明治17年(1885)の日記に「田原
啓賀」という句仲間の作に、
「酒酌(くむ)や虫を肴にさし向い」(田原 啓賀)
があった。
「田原 啓賀」とは、現在の伊那市東春近田原区に住んでいた啓賀と号する俳諧に志のある人物である。
この日記は明治17年7月25日〜9月17日までを記した「乙本」と呼ばれるものだが、まず始めに井月が伊那地方を歩いて採句した句を「発句集記」としてまとめ、その後に日付を入れた日記が始まっている。
日記では田原に訪れたの日が、9月10日となっている。
その時に採句したとすれば季節は秋、この句は秋の句ということになる。それに「虫」と言えば秋の季語である。
食べる虫も秋の季語なのか否かは多少疑問だが、やはりこの句は秋のものと考えて良いであろう。
秋となればその虫はおそらく「いなご」か「蜂の子」である。現在でもいなご、蜂の子は酒の肴であるが、110年前も同様に虫を肴にしていたことがこの句でわかる。
また、この句は酒の肴が虫であることを特筆している訳ではなく、虫というありふれた、気負わない肴で気さくにさし向いで酒を呑むくつろぎを詠んでいると思う。つまり、現在と同様、虫は特別のモノではなかったのだ。
このようにいなご、蜂の子が普通に食されているならば、ざざ虫も食されていたと考えても、何も不都合はないと考えるが、いかがなものだろう。
また、明治17年の田舎の酒盛りは江戸時代と大差ないものと考えられ、江戸時代から「虫を肴にさし向い」していたと言って良いだろう。
他に虫を食べていたことをうかがわせる句としては、井月自身の句に
「道端でそっと手を出す螽取(いなごとり)」
がある。
これもごく普通に伊那地方でいなごが(昆虫が)食べられていたと言える記述の一つである。
ただ、ざざ虫の調理法の項でも触れたが、現在と110年前では、肴にされる「虫」に決定的な違いがある。
それは味である。現在は砂糖を入れて甘じょっぱく煮付ける訳だが、その当時は砂糖などあろうはずもない。
ざざ虫も、いなごも、蜂の子も醤油味のみの味付けだったのだろう。
B伊那市史に載る「川殺生」
江戸時代より前の伊那地方の食事・民俗に関する文献はほとんどないのでその時代のざざ虫の記述を見つけることはまず不可能だろう。
高遠藩の記録が残っている江戸時代後期ならばその当時の生活がわかる。しかし、少なくとも伊那市史を見る限り、江戸時代の文献にざざ虫の記録は見つけることはできない。
伊那市史によると高遠藩内の川で行われる「漁・猟」にはかなり細かく運上金(簡単に言うと税金)がかかっており、「漁・猟」をするものは全て(少なくとも江戸時代後期には全て)藩へ届け出て、その許可をもらうシステムになっていた。
その当時、川で行う「漁・猟」は「川殺生」と総称され、漁法、猟法により細かく運上金の規定があったようだ。
「川殺生」の種類は以下のとおりである。
1)投網
2)筌(うけ)
3)小簗(こやな)小規模の簗
4)坪簗(つぼやな)定置的な大規模な簗。現在、伊那市内の毛見橋下流にあるもの
は坪簗と言ってよい。
5)滝懸(たきがけ)滝に懸ける簗
6)鵜匠(うじょう)鵜飼い。川底が浅く長続きしなかったようだ。
7)小鴨(こがも)囮の鴨を使って鴨を捕る猟法
8)黐縄(もちなわ)藤のツルにトリモチを付けて夜中川に流し水鳥を捕 る猟法
9)冬もぢり冬期、もぢり網を使って行う漁だそうだが、もぢり 網が何物か調査中。
10)川干し現在と違い川筋がいく筋もあった当時、一つの川筋 を堰き止めて川干しを行った。
11)魚釣
12)夏壺飼付(なつぼかいづけ)秋の初め河原に石をつんで魚の隠れ家を作っておき、
冬になって簾を立てて囲い石をあげて魚を捕るもの。
13)鉢伏(はちぶせ)兜鉢に麻布をかぶせてその中央に穴をあけ、鉢のそ こに糠の炒ったものを入れておき雑魚を捕る。
14)蒔毒(まきどく)山椒の樹皮をすりつぶし石灰と混ぜて川に流し、そ の毒に酔った魚を捕まえる。
これらの川殺生の中にざざ虫踏みは含まれていない。つまり、運上金の範囲外だったのである。
ただし、運上金の記録という公的な記録の中に登場しなくとも、江戸時代にざざ虫踏みがなかったとは思えない。
おそらく右記の「川殺生」は生業であるため税金(運上金)がかかるのであり、ざざ虫は生業ではなかったので対象外となったのだろう。
これはおそらく、いなご、蜂の子、タニシ、きのこ、山菜等も同様のことであったと思われる。
C「信濃国伊那郡筑摩郡高遠領産物帳」より
江戸時代の記録にざざ虫らしいことが載っていることを次の文書から発見できた。
それは、
「亨保20年(1735)幕命によって各藩が主要産物を報告 した「信濃国伊那郡筑摩郡高遠領産物帳」の「辺土百姓食 べ候物」の項目に、イナゴ、カニ、大豆の葉、タニシ、カワニナ、等々見られるほかに虫の項として『じゃじゃむし』とあるのがざざ虫のことではないかと思われる」
と言うものであった。
これは、天竜川漁業組合にスクラップしてあった「渓流フィッシング88/bR
山と渓谷社 山人たちの午後B 伊那谷、冬の風物詩天竜川の虫踏漁(文・写真=戸門秀雄)」に発見した文章である。
私はさっそく伊那市立図書館にて長野県史をひっくり返し「信濃国伊那郡筑摩郡高遠領産物帳」なるものを探した。
難なくそれは見つかったが(長野県史近世資料編第四巻(一)南進地方)この「信濃国伊那郡筑摩郡高遠領産物帳」に多少の解説を加えておこう。
この産物帳を編纂したのは高遠藩三つ目の藩主、内藤家の第三代頼由(よりゆき)の代で編者は市江三郎左衛門となっている。そして、なぜ高遠領産物帳なのに筑摩郡の文字があるかと言うと、筑摩郡であった現在の塩尻市洗馬地区が高遠領の飛び地であったためである。
さて、この産物帳はきわめて詳細に領内の産物を記してあり、米などは早稲(わせ)、中稲(なかて)、晩稲(おくて)、餅米に分けて七二種もの報告がある。
そしてその中の虫類には七七種の報告があり、その中に「しゃじゃむし」の文字がある。
ただし「辺土百姓食べ候物」とは「辺土之百姓給候物」が正しい書き方であり、そしてその「辺土之百姓給候物」の項目には「しゃじゃむし」は載っていない。「しゃじゃむし」は「虫類」の中に載っているのみである。
だが、この「虫類」には「はち、かに、いなご」なども含まれており、その中で「辺土之百姓給候物」に含まれているのは「いなご」だけである。彼らがはち(蜂の子)、かに(サワガニ)を食べなかったとはとうてい考えられないこであるから、我々のご先祖様である「辺土之百姓」様たちは「しゃじゃむし」も喰っていたのではなかろうか。
もっとも、この「虫類」の中には「かわむし」とあり、それが何者なのか気になる。そして「飯島調査」によればざざ虫とかわむしは同じ物と言う報告が3例ある。こうなると残念ながらこの「しゃじゃむし」が間違いなくざざ虫のことであるとは、これだけではなかなか言いにくい。
ちなみに、幕命による産物帳ならば他にあっても良さそうだと考え、長野県史すべてをひっくり返して他藩の産物帳を探したが他にこの「産物帳」は発見できなかった。
他藩にも「しゃじゃむし」があるかどうか確認したかったのだが、残念ながらそれはできなかったのである。 (話はそれるが、同資料の獣類の項に「おほかみ」とある。つまりオオカミのことである。伊那にもオオカミがいたんだなぁ、などとこの資料を見て妙に感慨深く思ってしまった)
ところがざざ虫としゃじゃむしの関係は、ざざ虫について書かれた最も古い記述にこんな答えが載っていたのであった。
D最も古い記述「信州名産河蟲の佃煮」
「信州名産河蟲の佃煮」久内清孝(1934=昭和9年)は、ざざ虫のことを世間に知らしめるために書かれた記述としては最も古いものと言える。
久内清孝氏とは平成10年現在の私の調べによると、1889年静岡県生まれ東邦大学の名誉教授とのことである。氏がどのような経緯で氏の本報告の題名でもある信州名物河蟲の佃煮を知ったかは本報告に
「この事に就ては曾て理学士恩田經介氏から聞いていたが、…」
「これを余に送って呉れたのは友人伊藤初太郎氏であるが、…」
との記述があるのみでこれ以上の詳細はわからない。また、この報告は「本草」という冊子に発表された物である。全体を読んでみると、久内氏は伊那にあってこの記述をしたのではないと思われる。
この記事は1700字ほどの報告と虫踏みの挿絵(久内氏の友人伊藤初太郎氏が描いたもので、戦前の虫踏みの様子がよくわかるものである)と佃煮にされたざざ虫の写真(シルエット程度にしかわからない)が載っている。そして、氏は自分のことを「余」と呼んであるところがいかにも戦前の文章ぽくてよい。
さて、ここで問題にしたいのはその報告の一番最後である。そこにはこうある。
「尚カハゲラ屬のものはジャジャムシ、ヒゲナガカハトビケラと推定するものはクロムシの方言で呼ばれて居る由である。」
今でこそ「ざざ虫」という呼称が普通だが、この久内氏の報告にはどこにも「ざざ虫」という呼称は出てこない。唯一最後に上記の記述があるだけである。しかし、内容は間違いなくざざ虫の佃煮のこと報告している。これには誰も異論ははさめない。
つまり、ここで前項の「信濃国伊那郡筑摩郡高遠領産物帳」の「しゃじゃむし」と「ざざ虫」がつながるのである。
亨保20年(1735)の産物帳にはっきりと「しゃじゃむし」と明記してあるということは、江戸時代の庶民・農民が食物を確保するために多くの苦労があったことは容易に想像できることからも、その「しゃじゃむし」を食べていたと言って差し支えないのではないだろうか。
さらに、ざざ虫踏み漁師の中でも代表格である中村和美さん(伊那市中央区在住。昭和2年生)にこの件についてお聞きしたところ、
「子供の頃、ざざ虫のことをジャジャムシと言っていた人もいた」
と記憶しているとのことである。
よって、文献のつながり及び中村氏の証言から、もはや「しゃじゃむし」「ジャジャムシ」「ざざ虫」のつながりを「イコール」とみてなんら差し支えないだろう。
ただし、亨保20年(1735)の産物帳にクロムシはない。中村氏も青虫(トビケラ類の幼虫)のことをクロムシと呼んだ記憶はないとのことである。
しかし、「かねまん」の先代のご主人の奥さんはクロムシという呼び名がまれにされていることを知っているとのこと。つまり、青虫の色は赤みがかっていたり、緑だったり、黒っぽかったりといろいろであるからクロムシという言い方もあるのだとのこと。
確かトビケラ類の幼虫は黒っぽかったりする。これについては実際に取れたての青虫を見ていただくこととしよう。
ただし、この写真は非常に重いので、さらにモロに「虫」なので覚悟の上、ざざ虫の文化的価値を認める向学心のある方だけ見てください。
E伊那天竜特産ザザムシの記
この「伊那天竜特産ザザムシの記 鳥居酉蔵(1957=昭和32年)」というレポートは、はじめて学問的にざざ虫を生物組成分類したものである。
鳥居氏はそのレポートによると「信州大学農学部教授,理博」となっており、信州大学農学部の教授として伊那の地に赴任したようである。
氏はこう書いている、
「虫屋の一人として土地の名産昆虫の分類学的知識を明確にしておきたい…」
このレポートは、ざざ虫をはじめて学問的にとらえたレポートであり、その分類表は昭和63年の中川一郎氏のレポート、同年の長野県水産試験場のレポートにも登場する貴重な資料である。記述の「虫屋」とは氏が昆虫学を専門としたからであろう。
レポートは「まえがき」「ザザムシの戸籍」「ザザムシの今昔」「あとがき」の4部で構成される約4500字のもので、前に掲載した生物組成表や写真などで構成される。前項の久内氏の記述は珍味紹介的なものであるが、このレポートは伊那の地に赴任した学者らしいものとなっている。
1957年にはじめて行われたざざ虫の生物組成分類は前述のとおり誰もが着目するものであるが、その他にもいくつか私の目を引いたものがある。
その一つ目は
「佃煮として市販されるようになったのは支那事変頃からとのことである。」
であるが、その「支那事変」とはおそらく蘆溝橋事件のことと思われ、とするとその年代は昭和12年(1937)である。つまり戦前にはざざ虫が佃煮と言う商品として伊那の店頭に並んいたことになる。
また、氏がざざ虫の生物組成表を作るにあたっては生のざざ虫を買っている。記述に
「ザザムシの佃煮を専門に造っているある商店から原料の生きたザザムシ(天竜川産)100匁を買った。(生で80円、佃煮では200円)。」
とあるが、これによりこの当時はざざ虫を生で売っていたことがわかる。
この「ある商店」とは、当時、伊那市坂下区入舟町にあった「塚原川魚店」(現在は市内横山区に移転рV6ー0594)と思われる。塚原さんの話でも当時ざざ虫を生で商っていたのは同店だけだろうとのことなのでまず間違いないだろう。
ちなみに塚原さんのお話だと、
「昔はざざ虫を生で買って煮付ける人がいましたが、いつしかそういうこともなくなりました。川魚も同様で昔は生で売って各家で煮付けたものですが、今はそんなことも本当に少なくなくなりましたね」
とのことで、同店も現在は川魚も生で商うことはなくり、川魚の煮物が取り扱い商品のほとんどである。とのことである。
確かに私の記憶にも、わが家へアカウオ(ウグイ)の行商人が来て、私の祖母がそれを買って煮付けていた記憶が鮮明にある。しかし、今ではそんなことはなくなってしまった。これも食文化の変化と言えるだろう。
二つ目に
「さらに興味深いことは最近国際貿易場裡にまで進出して来たことである。ある業者に米国のバイヤーから注文があり、油でカラ揚げにしたフライをニューヨークへ向け大々的に輸出されることになった。」
とあり、その当時は壮大な計画があったことがうかがわれる。
このことについて「かねまん」に問い合わせたところ。
「確かに昭和30年ごろこの話はありました。しかし、輸出するにはざざ虫の絶対量が少ないため、輸出に見合った量を確保することが困難なため打ち切りました」
とのことである。
前述のとおり「かねまん」は天竜川のざざ虫が一番おいしいというポリシーがあり、おいしいざざ虫しか出さないその姿勢が海外進出を打ち切りにしたのであった。「かねまん」らしい打ち切りであったと私は思う。
さて、上記の文献の他にざざ虫が昔の記録に登場するとすれば、やはり「俳句」、あるいは「短歌」「日記」等にしか登場しないのではないだろうか。
どこかの蔵に眠った「俳句」「短歌」「日記」等の未発見の文献に、ざざ虫の記述があればおもしろいのだが、今のところは「あったらおもしろいな」で止まってしまうのはやむを得ないところだろう。
ざざ虫踏みが、「ざざ虫の記」として文献に登場するのは久内氏の記述が始まりとなるのであろうか。過去においてそれほどにざざ虫踏みは記録に値しないものだったのだろうか。
ざざ虫に関する記録がこの記述までほとんどないことがそれを証明しているようで、何だか寂しい気がする。
しかし、今でこそざざ虫をはじめとする昆虫食が珍しさからクローズアップされるのだが、昆虫食、ざざ虫食が「当たり前」だったころは、ことさら文献に留める必要もなかったのかもしれない。
昆虫食が奇異になってしまった時代だからこそ、この記述が登場したのかもしれない。
まとめ
今やざざ虫は「広辞苑」に、
「ざざ‐むし【ざざ虫】カワゲラ・トビケラなどの水生幼虫の、信州地方での称。」
と載っている。残念ながら「信州伊那地方での」と出ていないし、「食用にする」とも出ていない。
今後「信州伊那地方では佃煮にして食用にする」と載せてもらう必要があるだろう。(「世界的にも珍しい」を加えても良いだろう)
確かにざざ虫を食べることは「いかもの喰い」である。故にそれを嫌って「ざざ虫を伊那市の顔にするなど……」と顔をしかめる方も多い。しかし、見方を少し変えてみればどうだろうか。
今回の調査・考察によって、ざざ虫という文化が希有の文化であることを確信できた。日本に一つしかない、おそらく世界でも例を見ない文化であることは間違いがない。繰返しになってしまうが、虫を捕るのに漁期と漁業権があるなど、正に驚異的である。
現在、どの自治体も他市町村にない独自の個性作りに励んでいる。そういった状況の中、ざざ虫を伊那市の個性にしないテはない。「ざざ虫を伊那市の顔にするなど……」と言う向きには、その個性の方向付けを「いかもの喰い」ではなく、「世界でも例を見ない文化」とすることで解決できるのではないだろうか。
今後、ざざ虫については、そういった観点、「世界でも希有の文化」でとらえていく必要があるだろう。
「はじめに」でも触れたが残念なことに伊那の人間のざざ虫の対する評価はかなり低い。いや、低いと言うよりも「昆虫食イコールげてもの喰い」という一般的な常識がかなり強い、と言った方が良いだろう。
しかし、さすがは信州伊那谷という土地柄、イナゴを食べることには何ら抵抗も偏見もないようである。いや、ないのである。しかし、世代が変わるにつれてイナゴ食も遥か未来に残るのかは疑問である。
こういった状況の中、ざざ虫は伊那の産業として現在残っている。他の地区ではほとんどなくなってにもかかわらず伊那には堂々と残っている。
参考文献
・原色昆虫大圖鑑 北隆館
・学習生物図鑑 学習研究社
・読売新聞 昭和38年2月5日
・サンケイ新聞 昭和38年2月20日
・信濃毎日新聞 昭和43年2月29日
・信濃毎日新聞 昭和62年5月12日
・伊那市決算報告書 平成元年度から平成6年度まで
・伊那市統計書 平成元年度から平成6年度まで
・渓流フィッシング88/bR 山と渓谷社の記事「山人たちの午後B 伊那谷、冬の風物詩天竜川の虫踏漁(文・写真=戸門秀雄)」
・日本国語大辞典 小学館
・世界大百科事典 平凡社
・日本の食生活全集 農山漁村文化協会
・一茶全集 信濃教育会
・井月全集 下島 勲、高津才次郎編 伊那毎日新聞社
・井月全句集 伊那弥生ヶ丘高校国語研究室編 伊那毎日新聞社
・長野県伊那地方特産「ザザムシ」とその生物組成 中井一郎 大阪教育大学付属高等学校池田校舎「研究紀要」第20集 抜刷
昭和63年3月25日発行
・天竜川のザザムシについて 昭和63年2月17日長野県水産試験場
・長野県史 長野県 社団法人長野県史刊行会
・伊那市史 伊那市 伊那市教育委員会
・SNOW 特集珍味探究 1996APRILbS05 雪印乳業SNOW出版部
・伊那天竜特産ザザムシの記 鳥居酉蔵(1957) 新昆虫、Vol.10 bU:26‐29
・信州名産河蟲の佃煮 久内清孝(1934) 本草、bQ0:38‐40
取材協力
・天竜川漁業組合
・かねまん
・塚原川魚店
・伊那市立図書館
(さまざまの面で多種多様な協力を惜しまなかった城倉三喜生氏をはじめとする図書館職員の皆さんに、心から感謝します)