グランドゴルフ場 5月より使用できます。
   受付はフロントで。
    (ご入浴・お食事セットプランもございます。)
ゴルフ用具貸し出しいたします。
 
友楽里館の周りには自然を有効利用した遊び場がたくさんあります。
マップを使って森林浴の散歩を楽しむもよし、貸し出しの自転車で探検するもよし。
 【遊び場】

万内川砂防公園
●新潟県砂防事業発祥の地を記念し、新潟県と新井市が設置した親水公園。友楽里館からは、車で約5分の距離

 川に入っての水遊びやバーべキュー・炊飯が可能。
 友達や家族で楽しめます。夏休みの川遊び体験には最適です。また、貴重な自然が残されており、
  川には、かじかや岩魚などの川魚も住んでいて、比較的簡単に見つけられます。
サイクリングマップ万内川砂防公園)

【友楽里館の四季】
【 春 】       
          
新緑と残雪をいただいた山々をバックに、野山は、一面、山菜の宝庫と化します。こごめやうど、タラノ芽、
          姫竹の子などなど。食通にはたまらない季節がやってきます。
        また、あちこちに、かたくりの花などが咲き乱れ、雪国の春が満喫できます。この大自然を味わうには、
         散策するのもまた格別です。

 
【 夏 】
        大自然に囲まれた環境を生かし、山や川などで、バーベキュー等。また、夏休みには砂防公園で
         サマーフェスティバルを計画しています。親子で楽しんでみてはいかがでしょうか。
         
ゆらり館敷地内にグランドゴルフ場完備・ご家族・お友達・で是非お楽しみください。用具貸し出しいたします。


【 秋 】

         山が一面、紅葉するさまは圧巻です。是非一度、見に来ませんか。
        また、米どころの中でもおいしいと評判の「矢代米」の里も味覚の秋を迎えます     
        おいしいコシヒカリや地元の農産物をふんだんに使ったこだわりの「食」を味わってください。


【 冬 】

        冬は水墨画のような雪景色の中で、ゆっくりとおくつろぎいただけると思います。
        近くに、赤倉スキー場・池の平スキー場があります。



【サイクリングマップ】
  貸し自転車は、あらい 道の駅で貸し出しています。
★はじめに★
   ・このマップは、友楽里館を中心に自転車で回れる見所を紹介しています。
   ・各名所の番号がサイクリングマップの中に記載されています。
   ・急な坂は多くありませんが、地図の位置と距離を確かめながら、
    余裕を持ってサイクリングしましょう。
   ・もし迷ったら?・・・そんなときは通りかかった人に気軽に聞いてみてください。

サイクリングマップ(535KB)

御備川(おそなえがわ)
 大毛無山を水源とするこの川は、岩魚が多くすむ川として県内外の釣愛好家にも知られていた。夏には蛍も見られる。
 また、友楽里館の裏手から連なる峰の上には上杉謙信時代の半ヶ峰城址があり、今でも土塁が残っている。
 御備川の名前の由来は、この城の守りに備えたという意味からと言われている。一説にはアイヌ語の「オサナイ川」(川尻に湿原のある川)とも。


馬頭観世音
 御備川の橋を渡ったすぐ右に小さな馬頭観世音がある。「大正14年建之 小島佐市」の文字があり、現在の両善寺北部小島さんの祖父が、
  この橋から落ちて亡くなった馬の供養に建立したもの。
 馬小屋の敷き草や餌として、山からススキなどの草を刈って家まで運搬することは水田の肥料を作る意味でも、大切な野良仕事だった。
  馬は田んぼの耕運や代掻き、山で作った炭を町まで運んだりする重要な労働力として大切にされていた。曲がり家と呼ばれる間取りの
  農家の家では、 玄関を入ってすぐのところに馬や牛を飼うところがあり、一つ屋根の下で人も家畜も暮らしていた。


霊山神社(りょうぜんじんじゃ)
 主祭神は、源氏中興の祖といわれる北畠親房(1293-1354 神皇正統配の作者であり日本書紀の研究者)。
   明治16年に、付近の両善寺集落にあった「諏訪社」「十二社」「石動社」等を合社したもの。又境内にはなぜか薬師さんも祀られており、
   5月上旬の祭礼には霊山寺住職からお経があげられる。
  このあたりは古くから源氏にゆかりが深く、大毛無山の中腹にある山の神、三社大権現も「八幡社」「山ノ神」「水の神」を奉っている。


石造宝篋印塔(いしづくりほうきょういんとう)
 寿永元年(1182)信濃の国横田川原で越後の国の国主 城長茂(資職)を破り、この地を通って京へ上った旭将軍 木曽義仲 愛妾の墓との
  言い伝えがある。また、近年高名な占い師の見立てによると塔の下には戦国武将の骨が多数重なって埋葬されているとも言われている。
  木曾義仲はもともと源氏にゆかりの深いこの上越地域にしばら<留まって京へ上る準備をしたとも言われている。
 このあたりは、かつて多<の寺院や僧坊があったが、上杉謙信の時代に武田信玄と通じていると疑いをかけられ、謙信によって焼き払われたとの
  言い伝えが 残っており、数十年前に両善寺の有志が長野の霊山寺を訪ね、この地より持って逃げたといわれるカワラケー枚を
  見せてもらったとのことである。毎年5月の上旬には地域住民がこの地に集い、往時をしのんでお祭りを行っている。


かんずり
 「かんずり」は、あのCWニコル氏が、エチオピアの「べレべレ」よりおいしいと絶賛した香辛料。芸能界にもファンは多い。
万能調味料です

女房石(にょうぼういし)
く女房石の伝説>
 今からずっと昔、この道が京都へ続く重要な街道の一つだったころ、ここを通りかかった夫婦の旅人がおった。
  沼(野尻湖)から関山権現に参拝し、矢代川の急流を越えて、大毛無山麓のこの地まで来たのであった。
 女房は身重の体であり、二人は夫の用事に合わせて京の都まで旅をしている途中だった。ところがこの辺りに差し掛かったとき、
  急に女房の体の具合が悪くなってしまった。幸いこのあたりには多くの寺院や僧房があり、そのうちの一つにお世話になって回複を待つこととなった。
 何日か養生をしてみたが、女房の具合はなかなか良くなってこなかった。しかし、夫のほうはどうしても約束の日までに京の都へ行かなければならない
  用事があったので、やむな<女房をこの地に残して出発しなければならなくなってしまった。
 女房は、「どうぞあなた一人で京の都へ行って<たさい。私の体もあなたが戻る頃には良くなっているでしょう。ここのお寺にお世話になりながら、
  あなたの行かれる京の方角にあるお山(大毛無山)を毎日拝んでご無事を祈っております。」と言った。夫はしかたなく後ろ髪を引かれながらも一人で京へ
  旅立って行った。しかし、身重の女房の病気は日ごとに悪くなり、ついに看病の甲斐なくこの地で亡くなってしまった。それからしばらくして、
  山仕事に出かけた百姓が今まで見たことが無かった 石が在るのに気がついた。その石の形が子供を抱いた女房がお山の方角を見ているように見えたので、
  誰とはなく亡くなった女房が、生まれて<るはずだった子供を抱きながら、京の都へ行った夫の無事を祈る姿で石になったのだろうと噂をするようになった。
 ようや<京の都での用事を終えて夫が帰ってきたのは、女房が亡<なり石になってしまってから間もない頃であった。今の西長森神社あたりまで来た夫は、
  そこで人々の噂話を耳にしてしまった。女房が死んで石になってしまったことを知った夫は、あまりの驚きと悲しみのためにその場で急死してしまい、
  石になってしまった。その後、雨の降りそうな夜にこのあたりを通りかかる人があると、男の旅人から「隣村の霊山寺に居る女房こ会いに行きたいが、
  歩けなくなったので背負っていって欲しい。」と頼まれることがあった。「いいでね、さあ、ぶっつあってくんない。(背負われなさい。)」としゃがんで背負おうとすると、
  とても重くて背負うことができない。ハッと我に返って振り返ると、なんと西長森の神社の石を背負おうとしていたという事が何回もあったという話である。
 今でも夫の石は会いたい女房石のほうを向いていて、女房の石は子供を抱いて京の都の方角にあるお山(大毛無山)を見守っていると言われている。


芭蕉塚(ばしょうづか)
 両善寺北部の船岡山にある。
 芭蕉翁は、元禄二年(1689)の7月8目から11日まで高田で弟子たちの供応により俳句の会などを催してゆっ<り過している。
 この句碑は、天明元年(1781)の建立。句は「うき我を寂びしからせよ可ん古鳥」、案内塚も入り口の反対側にある。
  ここにも、かつて西長森や三ツ俣集落から女房石へと続く古道が通っていた。近くにある石の祠は霊山神社に合社した「諏訪社」の祠で、昔このあたりは
  「古谷沢村」「伏龍沢(フリュウザワ)」と呼ばれた集落で、諏訪社はこの地から北西に300mくらいの高台にあった。そのあたりからは鎌倉時代のものといわれる
  珠洲焼きの大甕に入った大量の人骨が出土しており、疫病で亡くなった人を埋葬したと考えられている。


万内川(まんないがわ)
 上流に汚染源が無い清流。砂防公園の下流にあたる。昔は上から石を投げると、鮎にあたって取れたほど魚が多<いた(本当です)。
 注意して川原まで降りられれば、昔ながらの本当の清流を体感することができる。ただし、清流の番人「ザザアブ」に刺されないように
  (丁シャツの上からでも、体に停まってすぐに刺します)。マンナイの読みは一説にはアイヌ語からとも。


とうふ工房矢代

新潟県妙高市という自然が豊かな場所で、家族による手作りの豆腐を日々製造している。工場は清流・矢代川と妙高山を一望出来る場所にあります。
試食スペースもあるのでお試しを。

河童淵(かっぱぶち)
 ここには、いたずらな河童が住んでいたという話があり、また切り落とした河童の手を返す代わりに教わったという、「河童の傷薬」の伝説がある。
  また、最近まで「河童傷薬」を作っていた田中さんのお宅がこの近くにある(矢代豆腐店のお隣)。お宅には薬の販売に使用した秤や、
  包装紙の印刷版木などが保存されている。「河童の傷薬」は「目薬の木」を黒焼きにして作るらしいことまでは知られているが、
  傷の治療やオデキの吸い出しに効能があるとのことで、つい最近まで遠くから分けてほしいと訪れる人があったという。


万内川砂防公園(さぼうこうえん)
 約100年前(明治35年)の土石流で大きな被害が発生したことが契機となり、新潟県の砂防事業がここからスタートした。
  公園内には各種の砂防技術がわかるように展示され、小学校の学習にもよく利用されている。
 また、バーベキューの炉もあり、気軽にきれいな水辺環境とふれあう事ができる場所として、家族連れやグループの利用が多い(カジカや岩魚も多い)。
 さらに、上流の日影沢をはじめとして、多くの古い砂防施股が残っていることから、平成15年には登録有形文化財に指定されている。


道祖神(どうそじん)
 砂防公園の手前100mの下手、水田の中に小さな林がある。樹齢数百年はある杉の大木には注連縄が張られ、その杉と向かい合って石の祠が祀られている。
 約100年ほど前にここから約3q西方の粟立山が大崩壊を起こし、この辺り西野谷集落は多くの家屋が崩壊し犠牲者も1名出るなど、大変な損害を受けた。
  土石流はこのあたりを覆い尽くしたが、不思議なことにこの道祖神の手前で土石流が左右に分かれ、道祖神には災いが及ばなかった。
 祠の添え彫りには「卍」があり、仏教と関係の深いことをうかがわせる。


山の神(やまのかみ)
 西野谷新田集落の山ノ神。明治35年建立。中野川のほとりに在り.山菜、草刈り、薪取りなど生活の糧を恵んでもらえる山への敬けんな祈りの場所であった。
 中野川の谷はほかの谷とは比べ物にならないほど急峻で、この谷で怪我をする者も多くかった。