自然といのち 第14号

脳死と臓器移植(2)
 
平成11年10月1日
 
はじめに

 八月の猛暑が続く中、曙光に照らされる久々の雨上がりの朝は何とも新鮮です。水滴をまとった木々の緑や草花が潤いを得て、一気に息を吹返し、生き生きとしたいのちの輝きを感じさせてくれます。現代の喧騒の中で、いつも何かに追われ、息苦しく生きている我々は、もっと大自然の大らかないのちと触れ合いながら、自然のリズムを身につけていくことが大切なのかもしれません。
 「脳死と臓器移植」というテーマを考える時、何故か死に逝く人間の魂が軽視され、他者の臓器を得て生きだいという人間の理不尽な欲求だけが優先されているような印象がぬぐえません。前号では、何も主張できない脳死者の立場を代弁する意味で、日本人が「文化としての人の死」をどのように受け止めてきたのかを取り上げてみました。物質文化の氾濫による生命の軽視や精神性の喪失を前探とした脳死臓器移植の議論は不毛です。
 今回は、臓器移植の宿命とも言える拒絶反応や、臓器移植を待つ人の心理などに焦点を当てながら、死に逝く「いのち」と、もっと生きたいという「いのち」が交錯する場面での、人間の尊厳を支える精神性について考えてみたいと思います。
 

臓器移植と拒絶反応

 今から20年くらい前、私のいた大学でも、親子、兄弟間での生体腎移植が行われており、私は移植グループには属していませんでしたが、移植を受けた一人の若者の主治医として、その死を看取った経験があります。臓器移植の宿命として、たとえ親や兄弟の臓器であっても、非自己とする拒絶反応が起こります。この拒絶反応に関与しているのが人間の免疫機能です。この免疫機能は自己と他者を厳密に識別し、生まれながらに自分の身体に組み込まれたもの以外は全て排除しようとします。臓器移植を成功させるには、自己以外のものを拒絶 するこの免疫機能を抑制し、他者の臓器を自分のものとして誤認させる必要があるのです。このような目的で使用される薬が免疫抑制剤です。この免疫抑制剤は、拒絶反応を抑えるには不可欠なのですが、一方で免疫能力を低下させるために、HlV感染によるエイズ(後天性免疫不全症候群)と類似の病態を人工的に作り出すことになります。従って、細菌やビールスなど外界から進入してくる敵に対して無防備な状態となり、肺炎や尿路感染症が致命的になってしまいます。前述の若者も、通常であれば、治療上殆ど問題にならない程度の肺炎でしたが、免疫抑制剤を使用していたため、坂道を転がることくに病態が悪化し、人工呼吸器に よって懸命の努力を続けましたが、結局は帰らぬ人となってしまいました。母親に「御臨終です」と告げた時、母親は泣き崩れ、その体にしがみつきながら、「わたしの腎臓をあげなければ、こんな姿にならないで、もっともっと生き続けることができたのに、ごめんなさい! ごめんなさい!」と泣き叫び続けられました。その痛ましい声と姿は、今でも私の脳裏から消え去ることはありません。当時の臓器移植の華々しさの影に隠れた暗い部分と言えます。
 その後、サイクロスポリンという画期的な免疫抑制剤が開発され、飛躍的に臓器移植の治療成績は改善しましたが、それでも臓器移植の宿命ともいえる拒絶反応との戦いのためには、一生免疫抑制剤を飲み続けなければなりません。免疫という目に見えない部分での自己の唯一性を否定することによって、他者の臓器との共存を図るということが、素晴らしいことなのか、それとも痛ましいことなのか、それは移植を受ける人の心のあり方と深く関わっているように思えます。臓器を単なる部品として受け入れる人にとっては、それはやはり苦しみ以外の何ものでもないでしょう。しかし、自分を一度は否定し、他者のいのちとしての臓器と共生を図ることが、死者の魂を尊び、新たな実りある生き方につながっていくならば、道は開けていくのかもしれません。
 

臓器移植を待つ人の心理
 最近、九州大学で肝臓のドミノ移植が行われました。体肝移植を受けたアミロイドーシスの患者さんの肝臓が移植されたのは、悪性疾患で治癒を期待できない肝臓癌の患者さんでした。臓器移植によって生き続けることが可能な場合、生きたいという欲求は病気の種類や年齢によって変わるものではありませんから、誰もが同等の権利を有しているといえます。ただ悪性疾患にまで、臓器移植の適応が拡大されたことにより、今後臓器移植の待機者が大幅に増えることが予測されます。しかし現状、脳死による臓器提供者が殆といない中で、臓器移植を求める人の数があまりにも多くなりすぎると、表面には出てこないにせよ、心の奥底では、脳死者の臓器を奪し拾う阿修羅の様相を呈してくる可能性もあります。
 親から可愛い幼子への生体部分肝移植の場合には、我が子のいのちを守ってやりたいという親の切実な想いが伝わってきます。親と子の精神的な結びつきの強さが、この移植行為の背景を支えているのです。しかし脳死臓器移植の場合には、他者の臓器を単なる部品としか考えない貧しい発想や、死が迫れば迫る程、他者の臓器によって自らが生きんが為に、どこかで人の死を、それも若い人の死を願う気持ちが芽生えてくるのではなかろうかという疑念が、何か抵抗を感じさせる理由なのではないてしょうか。臓器提供を受ければ生きれる人の中で、あえて移植を望まない人がいるとするならば、単に臓器提供が少ないということだけでなく、人の死を願うくらいなら、親から譲り受けたこの生命の中で人生を完結させたいと決意するからなのでしょう。
 以前テレビのドキュメンタリー番組で、心肺同時移植を待つ20代の女性の姿が放映されました。その表情には、人の死を願うなどというやましさは微塵も感じられない、穏やかで澄み切った美しさが漂っていました。幼少時より苦しい闘病生活を乗り越えながら、自らの心を磨き続けてきたことが、何か神聖な境地に到達させたのかもしれません。そんな彼女の願いは、一度でいいから、普通の人と同じように、外の空気を吸って、思いきり飛び跳ねてみたいというものでした。このような人ならば、もし臓器の提供があったとして、それを神からの贈物として受け入れ、同時に死者の遺志にも深く感謝し、与えられたいのちとしての臓器をも慈しんでくれるに違いありません。残念ながら、その女性は移植を受けることなく、あの世へと旅立ったそうです。
 
臓器提供の心
 現段階での報道を見る限りにおいては、脳死臓器移植は「いのちのリレー」という美談として報じられています。何よりも尊重されるべきことは、脳死者の生前の意志と家族の納得です。今の世の中は、決して人に優しい社会とは言えないはずなのに、何故か脳死者には臓器提供を生ずることが、人に優しい生き方ですよと強要されているような雰囲気も感じられます。人の生き方が様々ある中で、脳死状態になったら臓器提供してもよいと確固たる信念をもって決意する事は容易なことではありません。それでも、同しいのちを与えられたものとして、病気で苦しむ人達のために、役に立ちたいと願う崇高な精神によって、臓器提供の意志が表明されるなら、それは尊いことだと思います。もっとも、現代の若者には、何もことさら難しく考えないで、死んだらゴミ同然なのだから、欲しい人にはあげればいいじゃないという考え方もあるようですが、人間と人間との精神のつながりを軽視するような考え方での、脳死臓器移植の行く末は、人間の醜悪さを露呈し、生命の尊厳を失っていくことになりかねません。
 法隆寺の大宝蔵殿に展示してある国宝「玉虫厨子」の須弥座の右側面には「捨身虎図」という絵が描かれています。インドに古来より伝わる「輪廻転生」の思想に基づいた、釈迦の前世語の物語の一つとして描かれたものですが、小説「愛死」の中での瀬戸内寂聴さんの解説によると、釈迦の前世である薩垂太子が、竹林の中で飢えている虎の母子に、自分の身を投げ与えたという、慈悲の極みの行為を伝えたものだそうです。赤い上衣を脱ぎ木の枝にかけている絵、下半身だけを赤い衣にまとい合掌しながら谷底へ向かって従容と落ちていく絵、飢えた虎に無残に食し慌らされている絵、時間の流れに沿った三つの絵が一つの画面の上中下に描かれています。私のような俗人は、この親崇高さに何か耐え難いものを感じてしまいます。虎の母子にただ食い荒らされて終わりでよいのか。この捨身という行為の裏にある慈悲の心が、何とか虎の母子に伝わって欲しいという願いを捨てきれません。
 
おわりに
 「脳死臓器移植」という問題は、二つの生命が交錯する中で、両者の崇高な精神に支えられ、「いのちとしての臓器」と共生することにより、新たな「生」を創造していくと考えるのでなければ、人間の醜悪さだけが表面化していくよう心気がします。ただ一方、脳死臓器移植の 問題にしても、ク□一ン人間の問題にしても、科学の進歩が生命の神秘を侵し始めたような気がしてなりません。有限な唯一度だけの与えられたいのちを、いかに大切に生きるかという基本的なテーマを置き去りにし、ただ生き続けたいと不老長生を願うだけでは解決にはならないように思えます。驕りから醒め、宿命としての自然の摂理を受け入れながら、感謝と敬虔な心をもって、与えられた人生を全うすることが、今改めて大切なことなのではないでしょうか。
(文責:国保依田窪病院 石橋久夫)