「囲炉裏」特集号
星の谷ファームHP
一年に一回通信の特集号を作成しています。私たちが感じたことを少しまとめて文章にしています。ぜひ読んでみてください。
2008年2月号 雑感帳 天明伸浩
学校の坂 天明香織
2007年2月号 雑感帳 天明伸浩
冬の賑わい 天明香織
2005年2月号 雑感帳 天明伸浩
「しっつぁえ」 天明香織
2004年2月号 雑感帳 天明伸浩
ご飯のリレー 天明香織
“雑感帳 2008” 天明伸浩
●私達の食べているものが、これほど中国で作られているとは知らなかった。まだ原因ははっきりしないが、中国で作られた餃子への農薬の混入は色々な事を教えてくれた。
惣菜コーナー、お弁当、定食屋さんなどで出てくる料理の多くが実は中国の工場で作られていた。
食べる人と作る人の距離が離れてしまっている現実がある。お店で買いに来る人の顔を思い浮かべながら作る惣菜と、工場の中で作られる惣菜。異国で加工する人は食べる人が想像できるのだろうか?
私達の食卓は一見豪華になったようだが、その作られている現場の映像から、食に対する思いは見えてこない。
私達の食が価格競争の名の下にいつの間にかとんでもない状況にあることが明らかになったたように思う。地域に合った食材を元に手作りされる食こそが、最上の食であり、地域の風土までも作り出していたはずなのに。
規格化された農産物を工場で規格どおりに加工、調理して、それを遠くに運び、ちょっと手を加えたものを次々に飲み込んでいく。
チャップリンが1936年に描いた「モダンタイムス」では、今の私達の生活が描かれている。食と言うよりは、エネルギー源を時間内に食べさせられる。少し前までは笑い話であったはずなのに。
どこから生活を見直すのか。私自身も含めて食を真剣に考えることが必要に思う。
●昨年の夏、小学校3年生の長女と2人で火打山に登った。もっと小さいうちに山登りに連れて行きたかったが、身の回りのことができるようになって脚力も付くまで無理に連れて行くと、山が嫌いになるので、はやる気持ちを抑えて子どもの成長を見守っていた。 家での手伝いの様子や、体力を見ると、無理さえしなければ行けそうだったのでチャレンジした。
星の谷ファームの田んぼからも望める火打山は2461mあり、アルプス以外では雷鳥のいる唯一の山。初めて登山をするにはうってつけの山である。
山小屋に1泊しての行程だった。地図のコースタイム通りに歩けたので、小屋についてからのんびりと過ごせた。少し歩くと小さな池があり、高山植物もいろいろと咲いていた。
そんな素敵なところをのんびりと歩くのは気分の良いものだ。少し離れた焼山からは、水蒸気の噴き出す音が聞こえてきてそれがまた気分を盛り上げる。
2日目は4時ごろには小屋を出て、ヘッドランプの明かりを頼りに歩く。まだ真っ暗で前後には人がいない山道を歩いてしばらくすると、遠くの地平線がうっすらと明るくなり、気が付くとヘッドランプのいらない明るさになっている。
御来光は雲で望めなかったが、頂上からは北アルプス、南アルプス、富士山と遠くの山まで望めた。
下り道では雷鳥もひょっこり顔を出し、初めての登山を祝福してくれているようだった。
山小屋での食事も自分達で材料を担いで登り、ガスバーナーで貴重な水を沸かしながら料理した。
海外の山や本当の冬山を経験するまではしなかったけれども、山登りを通して人生を学んだような気がする。
歩き初めまでの準備の大切さ、いざとなった時の撤退する勇気。自分で出来ることは自分でやって、自分の能力を見極めて山を楽しむ。
はるか遠くに見える(あるいは見えない)頂上まで1歩1歩進んで行くことによってたどり着く。
一つの山が飛びぬけて素晴らしいのではなくて、どの山もその季節に合わせて美しさがある。
山の上からの景色を見ると人間の作ったものが何とちっぽけなことかよく分る。
静かな山を歩き、雄大な景色を見ることはなんて素晴らしいことだろう。
今はいろいろな情報が押し寄せてくる。その中から自分達にとって必要なものを選び出していくのはなかなか難しい作業だ。
それでも自分の体を使い、目で見て、肌で感じることのできる自然からの情報は人が手を加えた情報とは明らかに違う。
色々な事を素直に感じることができる子供にそんな自然を楽しく体験させてあげることが、私にできる最上のことのような気がする。
学校の坂 天明香織
「お母さーん、何してるのぉ。早く来てよー。いいもの。いいもの。」
なぎさがピョンピョン跳ねながら、家のすぐ向かいにある学校の入り口で手招きをしていた。20年前に廃校になったこの川谷小学校は、入り口の坂を上って正面に校舎、左手にプールがあり、我が家の子どもたちにとっては馴染みの遊び場だ。
その日は久しぶりに青空が出て、雪の積もった学校の庭が見たいと、子どもに連れ出されたのだった。
「なあに?いいものって。」
あかねをおんぶした私がみさきの手を引いて坂の上り口までたどりついた。
なぎさはおねだり顔で、土手の雪がすべり落ちたところからひょっこりあらわれたススキを指差した。
足元の側溝は、雪をかぶってどの辺りにあるのか分からない。踏み外せば氷水にドボンだ。あかねが重くて思うように背伸びができない私は、ススキは届かないとしぶったが、みさきまでさかんに手を出しせがんだ。
私は仕方なく、できるだけ土手の高いところに片足を踏ん張って、思い切り手を伸ばした。ブチッ。硬い針金のようになったススキが一本、取れた。取った後で、二本取っておけばよかったと思った。
「やったあ!これ、あたしもーらいっ。」するりっとなぎさがススキを奪って雪の積もった坂道を駆け上がった。自分のものになると思ったみさきは、とたんに怒り声を上げ、なぎさを追いかけた。
雪はここ数日太陽の光を浴びて、歩くのにちょうどよい固さにしまっていた。勾配のきついこの雪の坂を、みさきが転ばずに走っている姿が私には新鮮に見えた。
私は、二年前の秋、この坂で、今よりもっと小さかったみさきが歩った日のことを思い出した。
みさきはダウン症のため、歩き出したのは2歳2ヵ月と、遅かった。家の中をようやく2、3歩あるけるようになった彼女に、私は靴をはかせたくて、車が行き交う心配のない学校の坂まで抱っこをして連れて出た。
「さあ、ここなら大丈夫だよ。おクツ履いてみようか。」
おさがりでやわらかくなった靴は、少しみさきには大きかったが、それでも格好だけはきまった。
さっそく腰に手を添えて立たせてあげた。みさきの右足が初めて靴と一緒に前に出た。続けてゆっくりと左足。しかし、前後に広げた両足は、全体重を支えるだけで精一杯だった。なんとか再び右足を出したものの、よろめいてストンと尻もちをついた。
しばらくして、彼女は両膝をつき、坂を這いずって私から離れ、ポイッ、ポイッと靴を脱ぎ捨ててしまった。そして裸足のほうがよっぽど気持ちがいいという顔をして、2,3歩あるっては尻もちをつき、またよろよろ立ち上がっては倒れた。そのうち、這いずったり歩ったり、よろよろ倒れたりしながら、やがてどんな体の動きもごちゃまぜになっていった。気づくと、頭、胸、腹、腕、手、足・・・体のすべてを使って、いつの間にか坂の上のほうまで上っていってしまった。
私は、彼女のかろやかさに、魔法をかけられた気がした。転がりながら、坂を上っていってしまったのだから・・・。屈託のない笑い声が風にのり、坂の下のグラウンドいっぱいに響き渡っているかのようだった。
「やーい、やーい。みいちゃん、こっちまでおいでー。」
なぎさがはやし立てる声に、いま目の前のみさきは向きになって追いかけている。てんでんバラバラの小さな長靴の跡が、子どもたちのえくぼのようだった。これからも無数の足跡が、この坂道に描かれるだろう。かつて200人以上の子ども達が通った川谷小学校。私たち家族にとって、これからも愉快な遊び場であってほしい。
“雑感帳 2007”
天明伸浩
時間や記憶の感覚がおかしくなってしまったのではと思うことがよくある。TVを居間から追放してほとんど見ない生活を送っていても、新聞やインターネットで伝えられる情報は膨大である。色々な出来事の起こった順番が頭の中で入れ替わり、さらに悪くするとすっかり忘れていることもけっこうある。
私たちが川谷に移り住んで早くも12年目が終わろうとしている。その間にもいろいろな事件があった。なかでも印象的なのは、世界を変えたという「9.11事件」である。学生時代にニューヨークに行ったが、ツインタワーからの眺めが気に入り、2ヶ月の旅の最後の夜もそこで過ごしてから地下鉄に乗って空港まで向かった。そのお気に入りの場所が崩れ去るのは何とも衝撃的だった。
その後、アメリカはビンラディンがテロの主犯者だとしてアフガニスタンに攻め込み、続いてイラクへと歩を進めた。この辺りの繋がりははっきり覚えているようないないような曖昧模糊とした感じがする。
小泉前首相はブッシュ大統領との仲を優先したのか、世界中にその戦争を仕掛ける仲間になることを勧めるように声掛けしていた。
イラクへの戦争を支持した国の多くの指導者は、その後自国民の支持を失い政権を追われているが、小泉首相は上手に逃げ切ったように感じる。
その後のイラクの状況はひどいものだ。テレビで放映される回数は減っているが、多くの人が内乱状態の中で死んでいる。イラクでの戦争を始めるときにこのような状態を想像できなかったのだろうか。
この正月に渡辺謙主演の映画「硫黄島からの手紙」を見たが、戦場とはいえ死んで行くのは普通の生活をしている普通の人であることが描かれていた。イラクでも普通の生活を送っていた普通の人が無数に死んでいっていると思うと切ないものがある。
日本の憲法は世界でも有名な「平和憲法」で、国際紛争の解決手段として戦争と武力を利用しないと謳っている。本当ならば武力で紛争を解決しないために世界中を駆け回って説得してもよかったはずだが、戦争をすることを勧める役回りになってしまっていた。
イラク戦争で分ったことは武力による解決は本当に難しいということだ。紛争を解決するためにじっくりと長い時間を掛けて話し合いをして気を落ち着ける必要を痛感させられる。それほど急いで結果を出す必要は無かったのではないだろうか。
しかし、世の中のスピードはいっそう速くなっている。そしてなんでも直ぐに結果を求められる世の中になってしまった。グローバリゼーションという名の世界市場化によって何でも経済効率の良いものが求められる。人生・子育てなどもっとのんびり構え、時間を掛けなければいけないものがあるはずだ。
子供たちまでも効率化を求められ、小さいうちから受験勉強をさせられ、高校生になれば効率よく勉強するために必修の授業も受けなかったりしている。そんなプレッシャーの中で生き急いでいるのではないだろうか。
大人も子供ものんびりと星や青い空を見たり、道端の花を見たりする時間が必要な気がする。そんなどうでもよいようなゆっくりとした時間のなかで、生き方や善悪について考えるゆとりが出来るのではないだろうか。今は空いた時間を無駄と考えて何でもやることで埋めてしまう。本当にもったいない気がする。
農業でも国からの効率化を求められ、規模の大きな経営体をつくって法人化していかなければいけないというように経済効率万能主義がはびこっている。
しかし農業が相手にしているのは植物だ。米も1年に1回しか作ることが出来ない。植物たちの成長のペースは自然のリズムに合わせてゆっくりと進んで行く。農業ではそのリズムに合わせることしかできない。
世の中のリズムがどれほど早くなっても1日は24時間で昼と夜があり、1年は365日で、春夏秋冬の季節の巡りがある。その決められた時の経過の中で米作りは受け継がれてきた。
自然・植物を相手にした農業は世の中のスピードが速くなりすぎていることを気付かせてくれる仕事のような気がする。
自分の気持ちが焦ってもお天道様や季節の変化を追い越して仕事をすることは出来ないのだ。
命の大切さや自然のリズムを感じることが難しくなっている今だからこそ、農業にたずさわる人はそのことをできるだけ多くの人に伝えなければいけないような気がする。
自然を相手にしているからこそ感じられる大切なものを、効率主義を持ち込んで失うことをしてはいけないと思う。 〈以上〉
冬の賑わい
天明香織
村の人たちが「オヤケ(屋号)のばあちゃ」と慕っている長島ヤヘさんは、今年で85歳になる。私も子どもを連れてよくヤヘさんのお宅にお邪魔するが、冬のお茶飲みでは、昔の雪下ろしの様子が話題になることが多い。
「オラが若かった時分は今と違って戸数もいっぱいごとあったすけね。冬になるとあっちの家の屋根の上、こっちの家の屋根の上って、雪掘りする人の姿があったもんだよ。隣近所電線またいで『ゆんべな、いっぺぇごっと降ったねえ。』『そいだねえ。また稼ぐかねえ。』って、挨拶かわしながらやってたもんだよ。」
「電線またいで挨拶!?。」
「そいさね。みんなそうやって屋根の上で声かけ合ってやってた。オラだけじゃない。みんながみんなそうして雪掘りしてた。だから辛いとかどうとかなんて思わんかった。かえっていまのが頼りなくなっちゃって・・・。人が少なくなったろ。寂しいさね。」
一人暮らしのヤヘさんのお宅には、ブルドーザーが除雪に来てくれるが、「この雪見ると気持ちが寂しくなっちゃってねぇ・・・。昔はこげなことなかったんだが・・・。」と、この冬も平場へ下りた。
「サワのばあちゃ」(松浦カネさん・83歳)は、オヤケのヤヘさんを「心の支え」と言ってもう何十年も親しく近所づきあいをしている。半身不随のご主人を40代のころから一人で介護し続けているカネさんにとって、お茶飲み友だちのヤヘさんがいない冬はこれで二度目だ。
年明け後のある日、村で唯一の小さな売店に、我が家で三番目に産まれたあかねをおぶって顔を出した。秋までは、見慣れたヤヘさんの杖が店の入り口によく置いてあったのだが、今はそれが見られない。
「こんにちは。」
「おぅおぅ。ぼぼちゃんも連れてきたんかあ。おまさん、はいもう、ぶってこられたんかあ。」
サワのカネさんの元気な声が外の寒さを忘れさせてくれるようだった。
「ぶわんと仕事にならんくってね。」
「どれ、おろしてみない。オラでも抱くぐらいできるよって。」
「助かる、ありがとね。」
店でお茶をご馳走になっていたカネさんは、椅子から立ち上がると、ねんねこにくるまったあかねを大事そうに私の背中からはずしてくれた。
「まんず、ぽたぽたとうまげな頬っぺただない。どうじゃ、ホレ、おまんさん方も見てみない!」
売り出し日で店に来ていたハヤシのお母さんやタケナバのお母さんに声をかけた。
「んまぁ、ほんに、いっときにでっかなられたのぃ。」
「ウフフ、じょんのびげにねってるじゃ。」
レジに立つミナミダケのお母さんも
「はいもう、笑いそうげだね。」と寄ってきた。
せまい店の中は、生まれてふた月を過ぎたばかりのあかねを中心に、たちまち賑やかな声が広がった。
いつもならおじいさんが待ってるからと、お茶を早めに切り上げて帰って行くカネさんだが、このときはあかねを膝にのせたまま、
「あんた先に済ませなさい。オラこうして抱いてるすけ。」と、子守役を引き受けてくれた。
カネさんは、
「あかねちゃんは明りぃほうがおもしれぇかぁ。」と蛍光灯の方にねんねこごと向けて
「やっぱし明りぃほうが分るんだな。ネェ、分るもんねえ。」と話しかけたり、「ベロベロバァ。」を繰り返して「いま口んとこ、オレ見てニコッとしたじゃ。ホレ!ホレ!ホレ!」と楽しげに腕を揺さぶったりしていた。
やがて外は雪がチラついてきた。
「やだのぃ。また降ってきたじゃあ・・・。」
私は杖をついて帰るカネさんのことを思い、お礼を言ってあかねを受け取った。ハヤシのお母さんやタケナバのお母さんも雪を気にして帰り支度をはじめた。
「サァサ、おらちじゃじいさが待ってるすけね。あかねちゃん、またこんどね。ハイ、皆さんもお達者で。御機嫌よう。」
いつも娘さんのように陽気なカネさんは、おどけた調子でそう言うと、買い物の品が入った段ボール箱を背中にかついで、スキーのストックを突きながら帰って行った。
タケナバのお母さんは、古布をより合わせて作った紐でひとかかえもある長ネギを段ボール箱の上にくくりつけた。紐と段ボール箱は、村の女の人たちが買い物をするときに欠かせない。皆たいてい一週間分はまとめて買って帰るので、箱の重さは相当になる。タケナバのお母さんは、カネさんと同じように箱をかついで、「じゃあ次まで達者で。」と残っている私たちに声をかけ急な坂道を下りていった。
最後まで私といたハヤシのお母さんは、正月遊びに来た孫たちの話を嬉しそうにしてから、「さあて、コンニャクでも練ろうかの。」とソーダを買い足して、「子どもさんがた、風邪引かせなさんなや。」といって坂道を上っていった。
背中に大きな箱をのせ、杖を片手に体を丸めながら帰って行く村の女の人たちの後ろ姿。まだほんの小さいころから、赤ん坊の子守りで兄弟たちを背負い、学校にあがれば大人と同じように稲を背負った。山に入って炊事用の焚き木も背負った。桶に汲んだ家畜の糞や人糞も、大切な肥料として背負い、山の田まで運んだ。夏は日照りのなかを、冬はこの雪道を、重たい荷を背負いながら行き来しつづけてきた。
先日も売店でカネさんにあかねの子守りをしてもらっていると、雪掘りで手を真っ赤にはらしたマエヤマのお母さんが入ってきた。
「なんだか店のストーブ囲む輪もだんだん小さくなっちゃったねぇ・・・。」とマエヤマのお母さん。
するとすかさずカネさんが、
「あらお姉さん、アタシが加わったのよ。輪っかが大きくなったでしょ。アタシ一番若いのよ。ヨロシクネ!」
といつもの調子で、まだ袖がぶかぶかのあかねの右手をぴょこんと持ち上げた。大きな笑い声のなかで、あかねの瞳は一層澄んでいた。
以上
“雑感帳 2005” 天明伸浩
●「山下惣一」という農民作家がいます。農業を始める前に読んだ著書は、その世界を知ることを助けてくれました。山下さんは昭和11年生まれで、親の後を継いで農業を始めました。その後、新婚旅行と称して夫婦で山の斜面を開墾してミカン園をつくりあげました。しかし30年間育てたミカンの木を平成2年に全部切ってしまったそうです。
そのミカン園を見てみたい、そして山下さんに会ってみたい、そんな思いで九州の唐津に行ってきました。
昨年は長年の夢がかない、若い就農者を星の谷ファームに迎え入れました。この地域の状況では、若い人達に新しく来てもらわなければ、生活をし、農業を続けることが難しくなっていくと思ってのことでした。しかし川谷に定住することなく出て行くことになりました。
前年の秋から将来に明るい光が見えてきたと気分が乗っていたのですが、思ったようにいきませんでした。そして、次の一歩が踏み出せないような気持ちになってしまいました。
●そんな中で「山下さんの止めてしまったみかん園に、次の一歩踏み出すための何かがあるのでは」そんな思いで訪ねました。想像していたよりも町場にあるお宅にお邪魔して、お話を伺いました。その後、軽トラックに同乗して案内してもらいました。曲がりくねった急な登りの続く、軽トラでもやっと通れる道をしばらく行った先に、そのミカン園は在りました。
いよいよその場所を見てみると、十数年前までそこにミカン園があって収穫したり草を刈ったりして、人が騒いでいた事が分からないような場所になっていました。なぜなら真っ直ぐに登ることもできないような急斜面で、すっかりヤブになってしまった山が目の前にそびえ立っているだけだったからです。
平らな場所にある田んぼと交換で手に入れたその場所に、自分たちの未来があると信じ、山の竹やぶを切り開く時の夢の大きさと苦労がどれほどのものだったことでしょうか。この場所は実際に見てみなければ分からない、そう感じました。そして鍬(くわ)を手にして山に立ち向かった山下さんが書いた文章だからこそ、迫力があって納得できるのだと分かりました。
戦後の時代背景があったとはいえ、本当にすごい場所にミカン園を開墾したものです。おそらく山下さんだけではなく、全国で多くのお百姓さんが似たような場所で開墾してミカンを作ってきたのでしょう。
川谷でも、今はカヤ畑になり雑木が生い茂って山に帰ってしまった段々田んぼがたくさんあります。そのほとんどは車やトラクターも入らず、稲刈りした稲なども人がしょって運んだ田んぼです。血の汗がにじむような苦労をして切り開いた田んぼや畑が全国にあって日本人の胃袋を満たす食料を作ってきたのだと思います。
●そして今では当時の足元にも及ばない苦労ですむ田んぼや畑ですら作ることをやめる時代になっています。昔の苦労をしのんでそれだけでがんぼろうとは思いませんが、せっかく長い時間をかけて作ってきたその土地に合った農業や集落を次の世代にバトンタッチしたいものです。
山下さんの止めてしまったミカン園を見て、厳しいところでやる農業は若い人も継がなくなるので「無理することも無い」と思うようになるかと思っていました。しかし、そのような気持ちにはならずに済みました。この場所で一緒に農業をやっていける人たちはすぐには現れないかもしれませんが、きっとここを好きになってくれる人が現れる。そのためにも、もっともっと川谷という場所を好きになろう。ここでは苦労も多いけれど自然の摂理を感じながら生活できる。なかでも、命にとって一番大切な食べ物、お米を作って生活できる幸せな場所です。
そしてできることをほんの少しずつでもいいから続けることが、今の自分にとっては必要な気がしました。
山下惣一さんとミカン園を訪ね、いつか自分の所を訪ねて来た若い人に言葉だけでなく、実際に行った仕事を見ただけで理解してもらえる「百姓」に成りたい、そんな思いを強くしました。
「しっつぁえ」 天明香織
稲刈りが終わったある日のこと。夫とお茶を飲みながら天気の話が始まった。春から続いた緊張がとけて一年の天候や作柄を振り返る。冬支度が始まる前のつかの間のひとときだ。
「それにしても今年のお天道さんにはやられたなあ・・・。」「本当に、お米も野菜もいいことなかったねえ・・・。」
雪のあるうちから大風が吹き、春早いころから台風のニュースに嫌な予感がした。7月の集中豪雨。田んぼや用水に被害が出、稲の穂ばらみにも悪影響が出て去年の冷害に続き2年連続の不作。子どもが好きなトウモロコシも強風のため受粉できず結局食べたのは数本だけだった。大雨の後の猛暑で、水不足のサトイモに隣の方が井戸水をもらいにきた。
越冬野菜の白菜や大根は、相次ぐ台風で苗がとろけなくなってしまった。山のアケビが少なく真っ青なままさっぱり色づかなかった。山の実りの不作もあってか、熊出没がこの町でも聞かれた。杉の切り株にいままで見たこともないような巨大スギヒラタケができて驚いた。食べて安全といわれたこのキノコにあたって、県内でも何人か亡くなった。
「何か気象に大きな異変が起きているんじゃないか?」「嫌だよねえ・・・」最近のボヤキ口調にこの日ばかりは気が滅入った。そういえば連日の雨のせいかもしれない。外の空気を吸いたくなって窓を見上げると、怪しげな曇り空だが今のところ降っていない。行くなら今だ。私は急いでみさきをベビーカーに乗せると長靴を履いた。足はもう田んぼの方へ向かっていた。
家のわきの道を下って橋を過ぎると、左手に作業場が見えてくる。下の子が生まれ、すっかりご無沙汰してしまっていた作業場だが、いつもと変わらぬ赤いトタン屋根をながめるとしだいに気分も落ち着いてきた。やがて土手に群がるホップやミズソバに目をやりながら二つ目の橋を越え、川の音を背に坂を上りはじめた。しだいに急になるのでベビーカーでの散歩は一苦労だ。腕を突き出しながら一歩一歩上る。山の斜面に垂れ下がった萩の花はもう枯れかかっていた。
ふと藍のことを思い出した。「そうだ、藍の花はどうしたろう?」
藍は、研修にこられたご夫婦が高崎の植物園から種をもってきてくれて、春畑にまいたものだった。「藍染め」などよく聞くが誰もその姿を知らない。面白そうだ、ハンカチ一枚でいいからみんなで藍染めでもしてみよう、そんな話をしていたのがつい昨日のことのように思い出された。
春、トラクターで耕運した畑には雑草のギシギシがまたたく間に生え、子どもが寝ている隙をみての雑草取りが始まった。根元を鎌でかき切り拾い集めるのだが、一雨ごとに太るギシギシは肥料袋何杯にもなった。ポットで育てた藍の苗を移植するころには、晴天続きで畑はもとの固い土に戻ってしまっていた。クワを打ち込んでも柄がスポンスポンはずれてしまう。やっとのことで畝を作り定植をすませたものの、バケツを運んで水やりまではできなかった。恵みの雨をたよりにしたが、そのうち思わぬ豪雨に見舞われてしまった。かろうじて生き残ったのはわずか3、4本。あとはほとんど見る影もなくなってしまった。
その後台風や稲刈りですっかり忘れてしまっていたが、このとき、あの藍の畑にもう一度行きたくなった。
農業には報われない苦労がつきものだ。自然の一撃ですべての努力が水の泡になる。これまでにもいろいろなかたちでそれを経験してきた。しかし、自然の力に自分の無力さを思い知らされながら、こうして、一日一日を生きている。
私は、傷ついてもなお生き残ってくれているであろう藍を思いながら、坂を上った。
一緒に植えた向日葵は小さいまま茎が折れて枯れていた。見渡すかぎり雑草がはびこっていた。私は倒れた向日葵にまとわりつく雑草を引きちぎった。かき分けると小さな赤い花が顔をのぞかせた。藍の花だった。初めて見たその花は、子どものころままごと遊びでお赤飯の代わりにしたタデの花に似ていた。細かい花が行儀よく縦に並んでマッチ棒くらいの花序をつくっていた。
山の風が直接吹き降ろすこの畑では、今年どれほど大風が吹き荒れたことだろう。株元から増えた4,5本の茎は膝丈まで伸びていたが、渦まくような形で静止していた。
この畑からは火打山、焼山、妙高山が一望できる。藍の花は遠くの山々を見つめているような気がした。
10月23日、新潟県中越地震が起きた。長引く余震でその後あの畑には行かぬままやがて冬を迎えた。今は家の周囲でも2mの雪がある。あの畑なら3m近くの積雪になっているはずだ。果たして、藍のこぼれ種でも生き残っているものだろうかと思いながら、村の人の「『しっつぁえ』ほどよく育つ」という言葉を思い出した。夏の暑さ、風雨にさらされた実のこぼれ種はとりわけ丈夫に育つ。だからこの村の人たちは、キュウリでもカボチャでもヒマワリでも、春自然に出たこぼれ種の芽は引き抜かず大切に育てる。
あの藍の「しっつぁえ」。冬の厳しさを乗り越えられたならきっと逞しい藍の芽が大地から育つはずだ。
冬も、もうしばらくの辛抱。サシバが南から戻りフキノトウが顔を出したらこんどは家族であの藍の畑に行ってみよう。
“雑感帳 2004” 天明伸浩
●去年は1993年以来の冷夏で、炎天下の草刈りに体がまいるという日は数えるほどしかありませんでした。来る日も来る日も雨ばかり。全国的なお米の作柄はずいぶん悪く10年ぶりの不作でした。私たちのお米の収量もやはり少し落ちました。
一見しただけではあまり分からないお米の種類ですが、品種はさまざまで、収穫の時期だけでも8月下旬から10月下旬まで2ヶ月近く開きがあります。昔は全国各地、その土地の特性に合った品種が栽培されていましたが、今は高値で取り引きされるブランド米に作付けが集中し、近年の激しい気候変動にイネの耐性が追いつかなくなってきています。そこで収穫量の激変による価格変動が、お米でも当たり前になってきました。
しかし自分でお米を作っていると、多少の気象や世の中の情勢の変化でも、自分たち主食はこの手でなんとかなるという安心感があります。山間地なので効率は悪く手間も倍以上かかりますが、私たちのお米を食べてくださっている皆さんともそんな安心感が共有できればうれしく思います。●私たちがここに来てまもなく10年目になりますが、この間に集落の人口は40人から30人まで減りました。来た当初は季節ごとの道路の補修や田んぼの用水管理など、どの家からも人が出て仕事を分担していたのですが、さすがに高齢化が進み、今では若い自分が一人で管理しなければならない場所も増えています。農村は都会と違い、協力し合わなければ仕事ばかりでなく生活そのものが難しくなってしまいます。
そこでここ数年私たちを手伝ってくれる若い人に来てもらって、農作物を山村で作る楽しさや苦労を少し感じてもらっていたのですが、この春からは、赤ちゃん連れの細田一家が来られます。山間地での生活は想像していたことは違うこともたくさんあるので、この地での生活に無理なく馴染めるよう、私たちもできる限り応援したいと思っています。嫌なときには「ちょっと村を脱け出してストレス解消!」くらいのリラックスした気持ちで臨んだ方が良いようです。
今までは妻と2人で星の谷ファームの構想を練ってきたのですが、春から新家族が加わり、将来の可能性がさらに広がるように思います。私たちもここでの生活が10年近くになると、さすがに当初新鮮に見えたものもしだいに当たり前の景色になってきています。そんな中での細田家の登場。新しい視点から気付いたことはどんどん指摘、提案してもらい、皆で知恵を出し合って一層魅力あふれる農場にできればと思います。そして何より、初めて面白いと感じたことを一緒に共感できるみずみずしい気持ちを私たちも忘れないように心がけたいと思います。●昨年生まれた次女「みさき」は産まれてすぐダウン症であることが分かりました。医師からそのことを聞かされたときは正直言ってびっくりしました。今まで障害のことについてじっくり考える機会がなく、無知から来る驚きと、これからこの子は幸せな人生を送れるのだろうかと不安がよぎりました。でも今は違います。この子の人生はこの子のもの。私の人生ではないのです。この子を信じ、精一杯自分の力で生きていってもらいたい、そう思ってます。
これからの子育てを思うとき、やはり今の世の中の空気が緊張し始めているのが気にならずにはいられません。当地に就農した年の阪神大震災、オウム事件、そして「2001.9.11」。私たちがずっと信じてきた何かが変わっていく感覚。これから育つ子たちに私たちはどんな時代をバトンタッチできるのでしょうか?国の借金が増え続ける中、イラクへの自衛隊の派兵などこの国が進んでいる方向に大きな不安を感じます。この子たちが大きくなるころ、安らかで人と人が信頼した関係を持って生活していられる社会になっているのでしょうか?今自分たちの選んでいることが将来の世の中にどのような影響を与えるのでしょうか?携帯電話や情報革命により自分たちが進む方向をゆっくり考える時間や、他人の痛みを想像するゆとりが奪われているように感じます。
人と人がゆったり安心した環境の中で、お互いの信頼関係を築けるような場を子ども達には作ってあげたい。それが今の自分の目指すものだと思っています。大きな世の中の流れは自分ではどうすることもできないこともありますが、行動の一歩一歩を、たとえ小さくとも積極的に周りの人たちに発信していきたいと思っています。私たちの住んでいる場所の自然の流れはじっくりゆっくりです。そんな自然のペースをしっかり受け止めた生活をしていければと思っています。
ご飯のリレー 天明香織
我が家は朝食と夕食を杉の丸い卓袱台を囲んで顔を揃えていただきます。夫婦2人、子ども1人、赤ちゃん1人。一日に炊くお米は7〜9合。一升以上炊ける大きなガス釜に、いつも白いご飯がたっぷり入っています。
一番食べるのは夫・・・いえ、最近は私が勝っています。お乳をあげているとよく食べるのです。上の子のおやつにはもっぱらおにぎり。5歳ですが、大きいのを一つペロリと平らげます。夫も雪下ろしの一服におにぎりを催促することが多いので、お釜の蓋はいつでもにぎやかに開けたり閉じたりしています。
周りの人にその話しをすると「おまんさんがた昔の人みたいだねえ。昔はテショ(小さな取り皿)に塩チョコットサのせてさ、そんでまんまたあんと食うたもんだよ。」まさにその通りなのです。
昨夏産まれたみさきは、すぐダウン症と分かりましたが、私はさほど気にせずすんなり受け止め医者に驚かれました。10年近い農家生活のなかで、自然の万物すべて、命のかたちは一様でないことを体で分かっていたからでしょう。そして何よりみさきは、分娩直後乳首を吸わせたとき、舌を上手に動かして自分で乳を吸い出すことができました。私はこの子が生きる力を十分備えて産まれてきたことを本能的に感じました。そして授乳を重ねるにつれ肌で感じたことは確信になり、まだ目も開かない赤ちゃんの生の意欲にすっかり我が身をあずけることができたのです。こうして二人目の育児も自信と安心を持ってスタートすることができました。
大寒寒波のこと。当地では一晩に1m以上も雪が積もりました。翌日も大雪。こんな日は郵便配達の方も苦労するので、時間を見計らってカンジキで道を踏み固めておかなくてはなりません。あいにく夫は留守。私が代わりに「道つけ」をしなければなりませんでした。みさきの寝顔に手を合わせ、カンジキの紐をくくって外に出ました。10歩踏み固めてから後に引き返せないあまりの雪の多さにあせりました。「1往復じゃとても足りない・・・2往復はしないと。あのまま寝てくれているといいんだけど・・・」
さいわい道路に出たところで配達の車が止まり、新聞と郵便物を大急ぎで受け取って玄関に駆け込みました。期待は外れ中から大きな泣き声!お腹を空かせ顔を真っ赤にして怒っていました。「ごめんね。お母さんバカだったねえ。勘弁してね。でもね、お外ものすごい雪なんだよ。」そんな言い訳で赤ちゃんの空腹はひとつも満たされません。頭にかぶった雪を払い落としながらお乳を出すのに手間取っていると、それこそ顔から火を噴き出しそうでした。なぎさもお腹がすくと大声で泣きますし、夫も空腹に大変イライラするタチなので、生きるためにもっとも重要な部分がきちんと遺伝されていると思いました。
雪の日は未明の3時から除雪車の音がします。私が寝返りを打つとみさきも半目を開けて口を鳴らし始めることがしばしば。寒のこの時期、明け方の授乳は寒さもひときわです。パジャマの上にセーター、半てんを着こみ、マフラーで首から頭をすっぽり覆いとりかかります。部屋の外は騒音。屋根ではドカン、ドカン、ザザザザーッと積もった雪が絶え間なく滑り落ちる音。除雪車がエンジンをふかしながら何度も同じ場所で前進後退し、鋭くとがった除雪板でウィーン、ウィーン、ギュギュギュギューと雪のかたまりをどかす音。大きなタイヤに巻きつけた太いチェーンはガーチャギー、ガーチャギー、ガーチャギー。バックする警笛がしだいに遠のきやがて去っていくと、あとの静けさは不気味なばかりです。
私は、お腹も満足しふくふくしたみさきの寝顔から一転外の暗闇に目を奪われました。今まさに、屋根から落ちる雪が焼夷弾であり除雪車が戦車であり、この小さな部屋が防空壕であったとしたら・・・。泣き声を漏らすまいと母に手のひらで口をふさがれている乳飲み子がいたとしたら・・・。寒さをしのぐ衣類もなく、自分の肌で子を抱きしめながら母たちはどのような思いでいるのだろう・・・。今なお戦渦にあえぐ人々の本当の苦しみを察することなど私には到底できませんが、ただ、あどけない子の寝顔にあらためて命の尊さを思い、この安らかな姿がどの子にとっても守られていてほしいと願うばかりです。
「冬至カボチャ食うたら米粒ひとつずつ日が伸びる。」とこの土地の言葉通り、夕方の西の雪雲も日に日に和らいできました。フキノトウが顔を出すころにはみさきもお乳が離れ、今度はお父さんのお乳、白いご飯をおかゆに食べ出すことでしょう。我が家の丸い卓袱台を囲んで、茶碗にご飯を盛り、皆で顔を揃えていただけるありがたさを思います。夫の労働が米ひと粒ひと粒の実りとなり、私の乳となり、赤ちゃんが育ち子が育ち、そんなご飯のリレーを大切に今年もがんばりたいと思います。