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| 松本藩領村々絵図(年不明 1713〜1725?)に見る 千国街道と千国古道 | |||
| 「塩の道」のルートは、日本海糸魚川より信州松本に至る120kmを古代より利用されていた。信州の和田峠の黒曜石は日本海沿岸へ、姫川流域でとれる、ヒスイはこの道にて、信州へ太平洋側へと運ばれていた。 「古事記」には、越の国、奴奈川姫(ヌナカワ姫)の伝説がうたわれています。 遠い昔、当地方を治めていた賢く美しいと評判の奴奈川姫の噂を聞いて、出雲の国、大国主命(オオクニヌシノミコト)がはるばる求婚に当地方へ訪れたということです。 『ぬな河の底なる玉求めて得し玉かも 拾いて得し玉かも あたらしき君が老ゆらく 惜しも』この中のぬな河とは「姫川」のことで、そして底なる玉とは「ヒスイ」を指しているといわれています。 『古事記』や『諏方大明神画詞』に伝えられていることによると、出雲国を治めていた大国主命は、高志(越=こし)の奴奈川姫を嫁にとり、建御名方命(タケミナカタノミコト=後の諏訪社神)をもうけた。大国主命の国ゆずりのとき、大国主命の決めた後継者に建御名方命は承知をせず、兄弟神と力競べをして負け、諏訪湖の辺まで来てここにとどまった。これが諏訪社の始まりである。ここ諏訪にはそのときすでに洩矢神(もれや=守矢神)という地主神がいて、建御名方命のこの地入ってくるのを防ごうと戦った。 が、呪術合戦の末、力及ばず負けて家来になり、後は建御名方命のこの地方開拓の良い協力者になった。その洩矢氏(もれや=守矢)は、その後長きに亘り、諏訪上社に神長官として仕えた守矢氏(洩矢氏)の後裔(こうえい=子孫)である。 この大国主命を中心とする出雲族の勢力は日本海の海岸を東にのび、越(こし)とよばれた北陸地方を勢力範囲とし、それから東の方ヘカをのばし、そのうちの一部は姫川の渓谷をつたって奥地へ開拓をすすめ信濃安曇野へ入った。この道も 「塩の道」ではあるまいか? 「義塩」 : 「争うべきは弓箭(ゆみや)にあり、米・塩にあらず」 故事は、「塩の道」に由来しているといわれている。真偽についての諸説はあるが、戦国時代、甲斐の武田信玄が、隣国である、駿州の今川氏 相州の北条氏と敵対した時期、今川・北条が甲斐地方への塩の輸出を禁じ、「南塩」といわれる ルートが途絶え、ただでさえ食塩の少ない山国の松本の民は非常な塩不足に苦しんだ。 一方、川中島にて 5回の戦いを演じた 越後の上杉謙信は「争うべきは弓箭(ゆみや)にあり、米・塩にあらず」として、「信州の民百姓は すすんで糸魚川の浜塩「北塩」を取りにくるように」と命じたという。「北塩」は「千国古道」ルートを運ばれたのではあるまいか? 時代とともに 「塩の道」もそのルートを 道の崩壊・時代の政治背景等の理由から変えていった。大きく分けると 「千国古道」と「千国街道」のルートがある。深志(松本)から日本海を目指し北へ向かい千国を通り、燕岩(ツバクライワ)にて 姫川に架かる宮本橋を渡り、姫川右岸を貫け信越国境をアワガ峠を越えるルートと 姫川を渡らずにそのまま 左岸を北上し、大網橋にて姫川を渡り大網峠を越えるルートである。この2つのルートは 白池にて合流する。前者が古く「千国古道」 後者を「千国街道」と呼ばれている 「千国古道」は 江戸時代 享保(1716〜35)の後期 跡杉山 北面の大崩落や遅くまで残る残雪・難所を越えならず、千国街道の三宿のひとつ大網宿の整備や大網峠の開設により、主役を「千国街道」に譲った。しかし何千年と人の歩いた道はそう簡単には消え去るものではない。連綿と先達に守られてきた「千国古道」 「千国街道」は今見事に甦り 峠を越える旅人の訪れを待っている。 「千国古道」は信越国境をアワガ峠にて越えたが 道の管理・整備の都合上 「塩の道」散策コースでは鳥越峠を越え古の里・戸土に至るルートにてコース設定をしています。 |
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