スウィーニー・トッド フリート街の悪魔の理髪師

日付:

2008.1.26

 もうひとつの“ジャック・ザ・リパー(切り裂きジャック)”である。ベンジャミン・バーカーは腕のいい理髪師だったが、ある日突然、権力者に妻と子を奪われ、無実の罪で15年間も投獄されてしまう。バーカーは脱走してロンドンに舞い戻り、スウィーニー・トッドと名前を変えて再び理髪師となり、愛用の剃刀片手に復讐を始める。おまけに、下宿先の女将は流行らないパイ屋をやっていて、トッドが殺した男たちを解体して肉をパイに混ぜて売り出し大成功をおさめる。人肉パイの話は、元は実話であるとも、日本でも口裂け女や手首ラーメンなどが囁かれたように、一種の都市伝説ともいわれているらしい。くすんだような黒を基調とした粒子の荒れた映像の個性は、19世紀のロンドンの下町の暗く荒廃したムードを伝えていて、人肉パイもありそうに思わせる。

ブラック・ユーモアとしか思えない設定だが、登場人物たちにリアリティがないのに対して、喉を切り裂くという血みどろの殺人描写が不必要なまでにリアルなのは理解できない。その意図は何なのか。単純に考えれば、監督がそういった描写を、作品のバランスを度外視するほどに好きなのだとしか思えない。スウィーニー・トッドが復讐と言いながら殺してゆく人々は、実際には彼に何の関わりもない(と思われる)人々で、縁も恨みもないのである。ここも納得できない。復讐心が一転狂気に変わる点に説得力がないのである。

ベンジャミン・バーカーの妻に横恋慕するタービン判事にしても唐突過ぎて、心情が理解しがたい。さらに、その娘を監禁同様に育て、他の男を寄せ付けず自分が求婚するのだ。嫉妬や占有欲ということでは説明不能の所業である。それに喉を切られるまで、特に変装しているわけでもないスウィーニー・トッドの正体を見破れないのは変だ。結局見破れないのはミュージカル舞台での約束事であって、映画では有効ではないと思う。そう思ってしまうとかなりイライラさせられる。

なぜミュージカル映画にしなければならなかったのだろうか。血しぶきとミュージカルの絵空事(虚構性)とは水と油なのではないだろうか。しかし、もともと原作はミュージカルである。「コープス・ブライド」のようにアニメならばダーク・ファンタジーとして観ることが出来たかも知れないが、ティム・バートン監督のセンスは、今回ちょっと受け入れ難い。生理的に。ミュージカルとして楽曲に印象に残るものがなく散漫で、作中ところどころで歌っているといった感じだ。ジョニー・ディップが初めて歌っているという話題性も特筆すべきものとは思われない。もともとハリウッドの俳優は結構歌ってしまうものだ。この夥しい流血が、唯一哀しくも美しかったのは、誤って最愛の妻の喉を切ってしまった時の血の赤さのみであった。

刃物(注)を扱う点で、同じジョニー・ディップ主演で撮った、もうひとつの“フランケンシュタインの怪物”の物語である「シザーハンズ」との共通点を見ることもできる。主人公の悲劇性も。シザーハンズは人造人間(手がハサミになっている)の庭師であったのだが、往年のホラー映画の正統な流れを汲んでいた。そしてパロディでありファンタジーであった。ここにはカルト的な雰囲気は十分あるのだが、ファンタジー的要素はない。

人を殺すことで共犯関係になるパイ屋の女の逆立ちした純愛といったことも並行して語られるのだが、ティム・バートン映画常連のヘレナ・ボナム=カーターの好演(この人はいつも眼窩は落ち窪んで隈ができ病的である)もあって、こちらの方がスウィーニー・トッド自身の復讐譚より鮮烈である。

字幕・佐藤恵子

 (注)理髪師というのは、散髪もするので、櫛やハサミも持っていなければならないはずだが、トッドは剃刀しか持っていず、髭を剃るだけである。これはちょっと奇妙だ。さらに、ライバルの理髪師と髭剃り競争をするシーンがあるのだが、通常なら髭剃りの妙技を映すのはずなのに、いともアッサリ終わらせてしまった。これもこの監督にしては妙である。


  
 ●監督◎ティム・バートン
 ●原作◎スティーブン・ソンドハイムとヒュー・ウィーラーのミュージカル舞台による
 ●脚本◎ジョン・ローガン
 ●音楽◎スティーブン・ソンドハイム
 ●主演◎ジョニー・ディップ
 ●共演◎ヘレナ・ボナム=カーター アラン・リックマン ティモシー・スポール ハシャ・バロン・コーエン
    
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