それでもボクはやってない

日付: 2007.01.23

 満員電車でフリーターの金子徹平は、会社面接に行く途中、痴漢に間違えられ、頑強に否定したため現行犯逮捕され拘留されてしまう。電車内の痴漢事件は物的証拠が無く、被害者の訴えのみが唯一の事件の証拠なのである。つまり訴えられたが最期で反証はない。題名どおり「それでも、やってません」といい続けるしかないのである。刑事事件として起訴されれば、99・9%の有罪率で到底勝ち目はないため、どこへ行っても、当番弁護士にさえも、早々に有罪を認めての示談を薦められる。
 無実と無罪とは最も近い言葉であるはずが、裁判では実はあまりにもかけ離れた言葉であった。刑事裁判はことの真実を見出す場所ではなく、裁判官が被告のウソに騙されない場所となっているのである。「疑わしきは罰せず」などという理念などはどうでもよく、刑事や検事や裁判官は次から次へ湧き出てくる被告人を捌いてゆくのに忙しく、文字通りに「裁いて」いる手間も気力も無い感じだ。
人間不信が極まった場所が裁判所なのである。人間を人間が裁くことの難しさも感じながら、人間とは、自分にも他人にも平気でウソをつく生き物であるという悲しい現実も垣間見える。審理は真理に到達することはない。おまけに、無罪判決を出すとその裁判官は特別な目で見られ、勤務評定が下がり左遷されてしまう。しかし、これが現実だとすれば、あまりにひどい。司法制度の独立性などは端から無く、検察庁の思うがままの判決しか最終的には望めないことになる。
 カフカの「審判」ではないが、無実の罪で捕まった人間が、無罪を勝ち取るほど難しいことはないのだ。なぜなら裁判とは人を裁くところであるから、無実の人間が裁かれるためにそこにいる訳はないし、無実の人間を裁くことは出来ないのだから、裁判にかけられている人間は、それ自体でそもそも無罪ではないのである。
 無罪の人間を有罪とし、それでも無罪を主張しようとすれば、反省の色が無いと判決で斬って捨てられてしまえば、まったく身も蓋も無いではないか。この描き方だと、主人公の青年はあまりに救われない。むしろ、ひょっとしたら、この青年は実際のところは痴漢したかも知れないと一片の疑惑の余地を残して終わった方が良かったのではないか。つまり「審判」ではなく、芥川龍之介の「藪の中」的(黒澤の「羅生門」的)展開にした方が。
 何れにしろ、法律というものがこれほど無慈悲に個人を蹂躙するとは。個人は法律の前でも弱者なのである。日本には今のところ陪審員はいないのだから、映画「12人の怒れる男たち」の正義は望むべくも無い。痴漢裁判についての生真面目なレポートを読んでいるようなドキュメンタルな実証性が、やや味気ない気もするが、問題提起映画として、知らなかった世界を突きつけられた気がする。


 ●監督◎周防正行
 ●脚本◎周防正行
 ●音楽◎周防義和
 ●主演◎加藤 亮
 ●共演◎瀬戸朝香 山本耕史 もたいまさこ 役所広司 尾美としのり 本田博太郎 光石 研

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