おくりびと

日付:

2008.9.27

伊丹十三監督の「お葬式」を思わせる。こう感じたらこの映画の何から何まで伊丹映画に見えてきてしまった。準主役で山崎努が出ているのでなおさらである。久しぶりに充実のキャストを生かした面白い映画だったので、それが悪いわけではない。あの当時の「ああ、こういう映画の作り方があったのか」という新鮮な驚きを思い出したということである。さらに言えば、黒澤明の葬式映画の「生きる」と比べても面白いと思う。

オーケストラのチェロ奏者として希望通りの職と家族(妻)に満足していた男(本木雅弘)が、ある日オーケストラが解散になり、失業してしまう。他に行くあてのあるほどの腕前ではなく、世渡りがうまいとはいえない彼は、やむなく妻をつれて東北の故郷(山形)に帰る。音楽しかできない彼に再就職は難しく、新聞広告を見て報酬に釣られて気軽に応募した先が、納棺師という仕事だった。納棺とは死んだ人の体を清め、死装束を着せ棺に納めることである。

自分の親族の葬式のときにはこのような葬送儀式はなかった。いつどこで行われたのだろう。死装束は病院から出るときには着せられていたと思う。これにも地方色があるのだろうか。納棺自体はたしか葬儀社の人の指図で行った覚えがある。彼が納棺師だったのだろうか。

彼らの職業とはいわゆる(●●●●)悪魔あるいは死神なのである。人間の日常とは対極の存在なのだ。死は「生」という日常の連続の断絶であり否定であるからだ。そして究極のものだ。したがって現代では忌避されることになる。忌むべき死を職業とするため職業差別も起こる。しかしこの映画での職業に対する差別のありようはパターン化されていて現実味はなかった。なぜ嫌われるのか分からなかった。死体を扱うから穢れているという考え方は果たして一般的なのだろうか。それだけで差別されるとは思えない。とすれば葬祭屋も同じはずだし、火葬場の職員は尚更そうではないか。

  失業した夫が就いた職業が選りによって死体を扱う職業だったというショックと、さらにそれを夫が自分に隠していたことへの腹立ちから妻(広末涼子)は実家に帰ってしまう。しかし彼女は、夫が自分を捨てた父を納棺するところを目の当たりにして、この仕事の意味を知ることになる。ここはそのための伏線となっているのだが、やや強引。そうなるまでに、失業した夫の再就職先をまったく聞かないのも無関心過ぎるし、勤務時間の不規則さや給料明細を気にしないのは妻としてはかなり鈍感であるように思える。

クリスマス(ケンタッキー)(フライド)・チキンというような洗練されたものでなく、ただの骨付きの鶏肉をおくりびとの面々(本木・山崎努・余貴美子)がガツガツ食べまくるシーンには、人間は他の生き物の命を(くら)らって生きているのだということがよく出ている。死者を送る度に消耗する生命力を食べることで甦らせているかのような食べ方である。死と生とは表裏一体なのだ。特に山崎努の食べ方は、啖う(くらう)という表現がピッタリ。けっして美味そうな食べ方ではないし、グルメが蘊蓄を傾けて味わうといった感じではない。この俳優は伊丹十三の傑作「タンポポ」でもそうだったが、いつもこんな食べ方をする。

葬送とは肉体の終局儀式である。人間は肉体至上主義なのだ。死とは肉が滅ぶことであり、「人間」とは「肉体」のことなのだ。仮に魂を十分に信じているのであれば、容れものである肉体に対してこれほどまでに固執することはないだろう。霊魂が不滅であれば、肉体の終わりは死ではないのだから。

改めて思うのだが、人間というのは面倒な生き物である。生きることもゴチャゴチャと複雑だが、死ぬにしてもただ死ねないのである。もちろんこれが平時の人間らしい丁寧な死の送り方、迎え方であるのだが、他の動物のように命が尽きて路上で終わり、自然に帰るわけにはいかないのだ。そうかと思うと、一朝事があると死屍累々の山を築いて平気でなのである。


 ●監督◎滝田洋二郎
 ●脚本◎小山薫堂
 ●音楽◎久石譲
 ●主演◎本木雅弘
 ●共演◎山崎努 余貴美子 広末涼子 吉行和子 笹野高史 峰岸徹 山田辰夫 杉本哲太 
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