河童のクゥと夏休み

日付:

2007.08.16

嵐を呼ぶモーレツ!オトナ帝国の逆襲」をはじめとする、破天荒アニメ「クレヨンしんちゃん」シリーズを連打した原 恵一監督の最新作。しんちゃんシリーズから離れて久しいと思ったら、これを撮っていたようだ。この話も、主人公は「しんちゃん」でも良かったのではないだろうか。原作があるのでそうもいかないのだろうが、河童としんちゃんとの交流というのは、設定としてはピッタリハマるだろうと思う。河童がテレビ局を逃げ出して、東京タワーを登ってゆくシーンは、限りなく「オトナ帝国の逆襲」のラストである。

小学生4年生の康一少年は学校の帰り道に川の辺で偶然、河童の化石を掘り当てる。河童は水洗いしていると何と目を覚した。第一声にちなんで「クゥ」と名付けられた。クゥは何百年も眠っていたので、自分の名前を忘れてしまっていた。クゥは康一一家と暮らし始める。キュウリが大好きで相撲が強いのも伝説通りだ。夏休みも近いある日、旅のパンフレットの「河童に会える旅」の紹介で、岩手県の「遠野」を知る。遠野はあたかも河童の故郷のようだった。

遠野物語」(柳田国男)という、環境問題という言葉のずっと向こう側にかつてあった懐かしい世界。その遠野にクゥと一緒に河童を探す康一少年の2人旅は、青春前期の人生の夏休みともいえる最も輝かしい季節の真っ只中であり、両者の間にかけがえのない友情と絆を感じさせる。そしてこの旅は第1回目の親離れとして描かれてもいる。康一はいわゆる「親の圏内」から、ちょっとだが抜け出すのである。

.」ものの(異生物を自転車に乗せて走り回る姿から連想されるのだが)日本的展開ともいうべきストーリーだが、クゥというキャラクターが、子供の河童ながら、田舎者丸出しの律義さ・義理堅さで実に微笑ましい。何百年も昔の良き日本人気質を表わしているようで、こちらが恐縮してしまう。彼は、自身が「生きている」のではなく、自然に「生かされている」のだという謙虚さを持っている。是即ち、生き物としての礼節であろう。

河童の実在がマスコミと世間の知るところとなり、クゥはワイドショーに出演することになる。そこで偶然父の敵の末裔に出会ってしまう。パニックに陥ったクゥは、スタジオを破壊し、街に逃げ出す。東京タワーを登り、人間界という“仁義なき生きもの”の棲む世界について言う。「ここは人間の巣だ。」そうである。人間はいかなるものとも棲み分けして来なかった。さらに、「人間は、自分たちが手に入れたものと引き換えに、自分の魂を失ってしまうだろう」とも。人間は世界のすべてを、根こそぎ自分のものにしてしまっている。これは文明批判であり、何よりも人間世界に対する絶望である。人間は礼節なき生き物なのである。

人間への恐怖から発揮されるクゥのサイコキネシスの破壊力の凄まじさは、もっと描写されるべきだった。もっともあまり激しいパワーだと、クゥは完璧に怪物になってしまうわけだし、そういう怨念報復ベースの映画にしたくなかったので、セーブしたのかもしれない。

自然も含めた背景・風景の克明な描き方(実在の町並や川のさざ波の描写)が見事ではあるが、アニメならではの誇張と省略、その結果のイマジネーションに解放された世界に至らなかった感じもなくはない。逆に人間界を(いじめ問題も含めて)徹底的にリアルに描くことにこだわりを感じる。河童という異人との対比を明確にするためだろうか。

意外なのは「E.T」とは違って、河童と康一のつながりに比べ、康一と友達同士の友情が語られることがないことだ。河童を匿っていることが世間に知れてから、康一は友達から仲間外れになってしまう。同情してくれるのは、いじめられている女の子沙代子のみである。現代における人間関係の希薄さを垣間見る気分だ。沙代子と康一の幼い初恋のぎこちなさと別れを織り交ぜながら、クゥとの出会いと別れが描かれるあたり、大林宣彦の甘酸っぱいノスタルジー映画を思わせる。

座敷ワラシやカミナリ雲の中の龍神や沖縄ヤンバルのキジムナーとの絡みが、もうちょっとあったら良かった。クゥの本当の旅は、自分の名前を取り戻す旅にあり、その旅は彼らと出合いながら、これから始まるのだろう。民俗的な自然界の物語になりそうでなりきれなかったが、それはそれでいいのだ。


 ●監督◎原 恵一
 ●原作◎木暮正夫
 ●脚本◎原 恵一
 ●音楽◎若草 恵
 ●主演(声)◎冨沢風斗(クゥ) 横川貴大(康一)
 ●共演◎植松夏希(菊池沙代子) 田中直樹(康一の父) 西田尚美(同じく母) ゴリ(キムジナー)

  


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