紙屋悦子の青春

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2008.8.21

 戦争をテーマとする映画が回想場面から始まるのは日本映画によくある手法だ。回想とは日本的なセンチメンタリズムなのだろうか。病院屋上の現在場面を除けば、全部回想であり、それも紙屋家の家屋の中でのみ進行する。完全な閉じた世界である。この閉塞空間は当時の日本の人々の、社会の状況を表すかのようでもある。そこにはひっそりとした人々の日常が確かにあるという感じ。ときに外から聞こえるのは幻聴のような遠い潮騒のみである。戦争中とはいえ、当時のお見合いののんびりとした感じや、「お茶は?」を「お茶碗」と思い込み、すれ違いながらも成り立ってしまう日常会話のおかしみや夫婦の些細な口げんかののどかさなど、小津安二郎調のホームドラマが戦時下でありながら延々と続くのだが、これはかなり成果を上げていて面白い。兄夫婦を演じている小林薫と本上まなみの掛け合いがうまくいっている。

悦子が想っていた男は特攻に志願して戦死する。悦子の想いはたぶん男にも伝わっていた。しかし、彼は明日にも死ぬ身である。親友に彼女を託した。もう逢えないし、帰ってこない。だから悦子は男の親友と結婚し、そして老いた。日常生活に対する戦死という死に方の異常さ。両親は亡くなってしまっていて出て来ないのだが、例えば、この家の中に老人がおり、戦争の最中息を引き取るという設定があったならば、日常の丁寧な老い方と戦争の慈悲なき唐突な死に方との対比がもっと生きてきたのではないか。

老いた夫婦が「戦争はもうこりごりですねぇ」としみじみ語りあうシーンは、戦争の時代を生き抜いてきた年輪を感じさせなければ単なる(演劇的な)セリフに過ぎない。いつものことだが、老けのメーキャップがどうも困る。日本映画独特の「老人メイク」で、冒頭これで先ずガックリしてしまう。戦中の若い2人がいきなり病院屋上の老人夫婦になってしまったかのような印象を持つ。紙屋悦子の「青春」とは正にこのようなものだったといいたいのかもしれない。しかし、演劇ならかまわないが原田知世と永瀬正敏にしか見えないのは困るのだ。

それにしても丹念に撮っている感じだ。もとは舞台劇。小津調と言ったが、動かない映画である。黒木和雄監督はこの劇に何を見てワザワザ映画にしようと思ったのだろうか。原爆投下後の広島を舞台にした、井上ひさし原作の「父と暮らせば」を映画化した時と同手法だが、あの映画もぜひ映画にという理由は伝わってこなかった。感情に濡れておらず、乾いた感じがした。当時の人間の日常を丁寧に描いたということなのだろうか。「母べえ」と共通項が多いが、ここには思想としての反戦も厭戦もなく、あるのは戦争という厄災の時代あるいは時間の出来事を漂うしかなかった庶民の姿である。わが青春の映画、「竜馬暗殺」「祭りの準備」の黒木和雄監督のこれが遺作となった。

となりのK市福祉センターにて連合系の自主上映。2006年公開作品を今見ているのである。なぜか英語字幕版。「お茶は?」を「お茶碗」と思い込むすれ違い会話をが英語でどう訳されていたのかは確認できなかった。「潮騒」は英語だと“SOUND OCEAN” なのである。


 ●監督◎黒木和雄
 ●原作◎松田正隆
 ●脚本◎黒木和雄 山田英樹  
 ●音楽◎松村禎三
 ●主演◎原田知世
 ●共演◎本上まなみ 小林薫 永瀬正敏  松岡俊介
    
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