2010.02.05        

インビクタス 負けざる者たち

前評判だと珍しくもラグビーを扱った映画だということだった。確かにそうだが、そこはイーストウッド、ハリウッド製スポーツ根性映画になってはいなかった。それどころかスポーツ映画でさえない。これは政治映画である。あるいは建国映画であった。南アフリカのアパルトヘイト後の黒人大統領ネルソン・マンデラを主人公にした映画で、たまたまラグビーを彼が国民の団結意識高揚のために利用するという話である。

 表向きは最下位の南アチームが奇跡のワールドカップ優勝を成し遂げるエピソードが中心に見える。しかし、最下位のチームがどうやって世界一位に上り詰めることができたのかを描くことは敢えてしていない。通常だと個性的な監督が着任して、士気の下がったチームを独特な練習方法でそれぞれの個性と能力を引き出して団結、相手チームを連覇してゆくという構図なのだが、どうしたわけか主将のマット・ディモン以外の選手の個性も、新しい監督の采配すらもまったく無視に近いのである。黒人選手をもっと増やせといったような小手先の改革もしない。

ネルソン・マンデラという27年も政治犯として投獄されていた男の不屈の精神をテーマにしている。(演じるモーガン・フリーマンの独壇場)大統領になった彼は、国民が人種によって対立するような不幸の芽は初めから摘み取る。だから今までの相手を赦さねばならない。復讐は認めない。これを彼は「人間的打算」(字幕)と言っている。だから国家再建のために「どんな色のレンガでも使えるレンガはすべて使う」と宣言する。まさになりふり構わない政治哲学だ。

彼を取り巻くエピソードとして生き生き描かれているのは、白人黒人混成の大統領警護班たちの人種的対立、そして最後の和解である。いままで散々差別されてきた黒人たちは、白人と同じ仕事を平常心で行うことなどできないからである。そこに軋轢が生まれる。人間同士というのは、正常な道を歩ければ互い信じあえるものなのだという希望。

映画は大統領の誠実な「人間的打算」を淡々と大仰にならずに描いてゆく。彼のこの場合の政治手法は、いわゆる劇場型政治である。一つの象徴を定めてその達成に国民感情を向かわせ、メディアも巻き込み、高揚させるというものだ。一人一人が劇場に上がっているかのようなその達成感を、国民同士が共有することで、国の団結を目指そうと目論む。個人が集まっただけでは国にならない。個人を超えたところに国家がある。そのためには身近なもので象徴が必要なのだ。「一つのチーム、一つの祖国」を合言葉に、その象徴にラグビーを選んだ。

疑問なのは、やがて国民は自分にスポットライトが当たってはいないことに気づく時が来るということである。ラグビーボールは一つ、全員が持って走れるわけではない。この時の落胆は大きなものになる。イーストウッドの言いたかったことは、逆に政治が全国民にできることは、このような夢を共有することぐらいしかないのだといいたいのかもしれない。決して赦せない敵を、友として赦すという経験が一度でもあれば、それがすべてにつながるということなのだろうか。

南アチームが優勝した瞬間は、国家と個人が最も幸せにつながった瞬間となった。(ホルストの「ジュピター」の一節はここでも感動的に歌われる。)しかし、優勝しなかったらどうするつもりだったのだろう。最下位チームなのだからまったく危険な賭けだ。だが面白いのは、そういった国民的盛り上がりに距離を置く層もちゃんと出していることだ。主将の家族、特に妻は家と亭主の(つまり自分の)心配しかしていない平凡さである。全員が万歳しているわけではない。

権力・メディア・スポーツの三位一体は、ヒットラーの扇動政治にも見られる象徴的な劇場型政治手法である。ちがうところは国民的陶酔を維持するためにヒットラーはスポーツを戦争に置き換えたが、マンデラはそうしなかったということだ。(この三つが一体となった興奮は、正直言って自分も居心地が悪くて仕方ないのである。)

タイトルの「インビクタス」とは英国の詩の一節だそうだが、それがいつの誰の詩でどんな内容の一節なのかは紹介されないのでほとんどわからない。もう少しその意味するところを紹介してほしかった。このへんもインテリぶらないイーストウッドらしくあっさりしたものだ。

字幕・松浦美奈

監督・製作 クリント・イーストウッド 脚本 アンソニー・ベッカム 製作総指揮 モーガン・フリーマン
主演 モーガン・フリーマン マット・ディモン

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