アイアム・レジェンド

2007.12.24

リチャード・マシスン原作の「地球最後の男」(未読)は今回で3度目の映画化らしい。ここで描かれる文明が絶滅した地上の光景は、小松左京の破滅テーマのSF「復活の日」、ダニー・ボイル監督のゾンビ映画「28日後」に描かれた光景と極めてよく似ている。どちらも世界は感染によって滅んでいる。今回はチラシも見ずに、予告編も観ていない。だからこれがゾンビ映画だとは知らなかった。この種の映画に有り勝ちなのだが、「・・・最後の」と言いながら実はそうではなく、生き残っているものがちゃんと他にいるということがある。これもそうだ。

癌の特効薬として開発されたウィルス(クリピン・ウィルス)が突然変異して、逆に人間に対して猛威をふるい、わずか3年で人類は絶滅してしまう。正しくは、全員死んだわけでなく、ある人々はウィルスによってゾンビと化してしまった。ゾンビは紫外線に弱く、日中は表に出て来られないらしいのだが、このあたりの生態説明がはっきりしないため良くわからない。

ゾンビが出てくるとは思わなかったので、他に何かがいるという伏線はあったにせよ、「サイレントヒル」を思わせるゾンビ群登場シーンにはそれなりの衝撃力はあった。それに伴うアクション描写もなかなかのものであり、「なんだ。ゾンビ映画かよ」と思いながらも引き込まれる。その引き込まれ方はあくまでB級大作としてのものなのだが。

ウィルス学者ロバート・ネビルは、直前までクリピン・ウィルスのワクチン開発をしていたが間に合わなかった。なぜか彼は免疫を持っていて感染を免れる。よりによって免疫を持っていた人間が科学者で、おまけにウィルスの専門家というのは、あまりにB級的に好都合だ(つまりご都合主義だ)。ウィル・スミスがウィルス学者というのでは(日本語では)ダジャレにしかならない。行動派のウィル・スミスが科学者というのも無理なキャスティングのように思える。誰もいない世界に生き残った主人公の孤独が前半かなり克明に描かれるが、それは孤独というよりも退屈といった方が良く、最後の人間という「種」としての孤独というものが感じられるまでの描写ではない。

自分に免疫があって感染しないのを知っていれば、自分と同じ体質の人間が地球上に必ず存在するのは、科学者でなくても容易に想像つくはずなのに、奇跡的に遭遇した生存者の女性に、免疫者たちの疎開地があると聞いてもまったく取り合わないのは合点がいかない。感染源地(グランドゼロ)であるニューヨークに留まるのは、家族も人類も救えなかった科学者としての意地なのかもしれないが、ワクチン研究シーンがおざなりにしか出てこないので説得力はない。

ネビルは、ワクチンを開発するために、女性のゾンビを捕まえて生体実験している。このワクチンが効いて女ゾンビが人間の女に戻り、彼女と愛し合ようになるというような、いわゆるハリウッド的展開を想像したのだが(期待ではない)、そうはならなかった。実験台にされただけの女ゾンビはちょっともったいない。ラストでそれなりの役目は果たすのだが、女性である必然性は別にない。もったいないといえば、ネビルのただ一匹の相棒、犬のサムも単なるペット以上の存在だったのに、最後まで十分な場を与えられていないように思われる。

科学と神の問題にも触れているように感じたが、ネビルは神に対して、科学者特有の否定のしかたをする。人類文明の復活について、神の問題は重要だ。科学の災厄には科学で報ずるというのでは、人類の「復活」はただの対症療法の結果に過ぎない。これは人間の傲慢さではないだろうか。神=文明だった期間の方が長いのだから。科学は神に至る道に過ぎなかった。この際人間よりもっと大きなものが必要なのではないか。

それはそうと人間の生活に必須である電気はどうやって調達しているのか説明がなかった。当然発電所は停止しているはずである。ガソリンはあるので自家発電機で賄っているのだろうか。これはずっと気になった。文明人というのは、大規模な設備(科学文明)に支えられないと、たとえ一人であっても生き得ないのである。

字幕 林完治


 ●監督◎フランシス・ローレンス
 ●脚本◎マーク・プロトスビッチ アキバ・ゴールドマン
 ●音楽◎ジェームズ・ニュートン・ハワード
 ●主演◎ウィル・スミス
 ●共演◎アリス・ブラガ ダッシュ・ミホック  
    
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