シャーロットのおくりもの

日付: 2007.01.01

 シャーロットはクモである。農場の家畜小屋に住んでいて、気持ちの悪さからみんなに嫌われている、メスのクモである。彼女だけが、ファンタジーらしく擬人化されている。もう1匹の主人公、豚のウィルバーや他の動物たち、牛、馬、羊、ガチョウ、カラス、ネズミらは動物そのままで、動物の言葉をしゃべる。つまり擬人化されていないのだ。擬人化されていない動物たちが、言葉をしゃべるのは、驚きも新鮮さもぜんぜん感じない。
 (たぶん高度な)コンピュータ・アニメ技術を駆使していると思われるが、動物たちがこれほど実物に近いとあまりにリアルで、かえって何の意味も無いように思われる。擬人化されて初めて動物語を話せる(話す意味が生まれる)のではないのだろうか。豚や牛が口をパクパクさせて、あるいはカラスやガチョウがくちばしをパタパタさせているだけにしか見えないのである。
 ストーリーについては、取り立てて何も起こらない話だとしか思えなかった。母豚のオッパイにありつけなかった11匹目の子豚が、(人間の)女の子(ファーン)によって救われる。この子豚は好奇心いっぱいで、農場の色んな動物と友達になる。でも豚は大きくなれば豚肉にされてしまう。果たして豚のウィルバーを救うことが出来るのか。
 ウィルバーの友達シャーロットは、友達になってくれたお礼に、クモの糸を使って、ウィルバーのために「特別な豚」とか「最高」とか「ピカピカ」とか「控えめ」とか巣に文字を書き、それを人間が読んで驚くのだが、それがなぜウィルバーを豚肉の燻製となる運命から救う手段になるのが分からない。ウィルバーは人間から見れば依然としてただの子豚。特別なのはシャーロットの方である。ぜんぜんピンとこない。ファンタジーを感じない。動物にとっての「文字」が、人間にとっての「文字」と同じ意味ではありえないのに、それを同列に扱っているのが違和感の原因であると思う。
 擬人化という点からいえば、シャーロットの巣に掛かったハエは、ただの昆虫としてしか描かれておらず、シャーロットのクモの糸にぐるぐる巻かれて餌になってしまう。一応(食物連鎖上?)シャーロットは「感謝しながら」食べると言ってはいるが、このハエにも命(=キャラクター)はあるのであり、同じ生きものという点からすれば、取り上げ方に公平性を欠いているように思われるのは皮肉な見方過ぎるだろうか。
 さすがの名子役ダコタ・ファニングも、豚とクモのエピソードに映画のほとんどが割かれてしまい、動物相手に演技のしどころ無く、観ていてかなり苦しい。何でもデジタル映像化すれば良いというものではないということだ。謹賀新年米国謹製鳥獣戯画的児童映画。
吹き替え版にて。


 ●監督◎ゲイリー・ウィニック
 ●原作◎E・B・ホワイト
 ●脚色◎スザンナ・グラント キャリー・カークパトリック
 ●音楽◎ダニー・エルフマン
 ●主演◎ファーンASダコタ・ファニング(声:福田麻由子)
 ●共演◎シャーロット(鶴田真由) テンブルトン(山寺宏一) グッシー(松本伊代) ゴリー(ヒロミ)
 アイク(高橋英樹)

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