バベル

日付:2007.05.10

バベルの塔」とは旧約聖書の伝説である。人間は天まで届く塔を作ろうとした。怒った神は、人間の言葉を分けることによって世界をバラバラにした。さらに言えば言葉と共に神自身もバラバラになってしまったのである。だから以来世界は混乱したままである。「バベル」はキリスト教の伝説なのに、舞台はモロッコ、日本、メキシコというのはバラバラになった世界を表わしているのだろうか。

モロッコに観光旅行中のアメリカ人夫婦。妻が銃で撃たれ瀕死の重傷となる。モロッコ人の貧しい山羊飼いの子供が銃で遊んでいたのが命中したのだ。ライフル銃は日本人がモロッコ人ガイドに贈ったものだった。アメリカ人夫婦には幼い子供が2人いて、アメリカに残してきている。その子供の面倒を見ているのがメキシコ人の乳母である。

アメリカ人夫婦は、幼い子供たちを置いてまでモロッコに旅行しているのは、3番目の子が突然死して夫婦関係に亀裂が入り、その修復のためらしい。いわゆるメンチメンタル・ジャーニィ。だからといって子供を乳母に預けて夫婦だけでモロッコまで旅行するだろうか。夫婦はこの事件でモロッコから帰れなくなったが、乳母は息子の結婚式に出るためにその子供たちをメキシコまで連れ出してしまう。乳母は不法滞在者だったので、誘拐とみなれてしまう。

日本人はモロッコにハンティングに行った折、ガイドにライフルをプレゼントしたのだ。日本人は家庭を全く顧みない人間らしく、妻はライフルで自殺しそれを娘が発見した。自分の妻が自殺に使ったライフルを持ってモロッコにハンティングに行くというのはどういう神経なのだろう。当然のごとく家庭は崩壊。どこにも逃げ道を見いだせず、精神のバランスを崩し露出狂(にしか見えない)になった聾唖の高校生(にはとても見えない)の娘がいるのだが、彼は妻に対してと同じように娘に対しても全く無力である。彼女は下着を着けずに街を遊びまわったり、全裸で刑事に迫ったりする。

以上すべてはっきり言えば無思慮・無神経・無配慮ともいうべき自業自得。バベルの伝説も言ってみれば自業自得の話だ。アメリカ人妻の傷は回復し国際ニュースになる。めでたく夫婦の絆は癒される。モロッコ人の子供の1人は警官に撃たれ死ぬ。メキシコ人の乳母は強制送還になり、日本人の親子はなぜか和解する(和解に至る理由は見当たらないが)。日本編は他編と比べて異質かつグロテスク。無理が多いし(注)意味がわからなかった。日本編だけが世界情勢を反映しておらず、単なる個人的な話だからだろう。必要性のないヌードも有難迷惑。もっとも露出狂じゃあしょうがない。

アメリカ人がイスラム圏で撃たれれば、このご時勢なら国際ニュース。だが、モロッコ人が死んでもニュースにもならない。ここで救済されているのはアメリカ人と日本人である。ともに富裕層だ。富める人々は救われ、貧しい人々はより不幸なったに過ぎない。おまけに富める者はヒューマニズムさえ手に出来る。貧しいものは、哀れに醜く描かれるだけである。バベルというより「レベル」についての映画。モロッコの貧困、メキシコの狂騒、東京の繁栄と孤独、そしてアメリカは荒涼とした砂漠の貧村に出現する鋼鉄のヘリコプターだ。グローバリズム世界の格差を象徴するかのように、まるで異星からの使者のごとくに傲然と砂埃の渦を巻き上げ舞い降り、舞い上がる。

メキシコ編、モロッコ編、日本編のいずれも共鳴し合うようなドラマの繫がりは見られない。むしろそれぞれのレベルによって隔絶されている。こんな現実を映画でわざわざ言い直す意図がわからない。大仰なタイトルで何を深刻がっているのだろう。見終わってからイイ気なもんだという気がして来て、どうも不愉快である。同じ監督でも人間の運命の絡み合いを描いた傑作「21グラム」とは大きな違いだ。


(注)どうでも良いことなのだが、少なくとも日本では、歯医者は患者を治療するときはマスクをしているはずだと思う。この監督の国ではしないのだろうか・・・。
追記1***ニュースでも話題になったディスコのシーンでの問題の光の明滅箇所は、逆に目を凝らして観てみたけれど何も異常は起こらなかった。
追記2***日本人の名前は「ヤスジロー」、聾唖の娘に裸で迫られる刑事の名前は「ケンジ」。ヤスジローは小津安二郎監督から、ケンジは溝口健二監督から取った名前だろう。アキラ、ミキオでなくて良かった。

 監督◎アレハンドロ・ゴンザレス・イニャリトゥ
 脚本◎ギジェルモ・アリアガ
 音楽◎グスターボ・サンタオラヤ
 主演◎ブラッド・ピット ケイト・ブランシェット
 共演◎菊池凛子 アドリアナ・バラーザ ガエル・ガリシア・ベルナール 二階堂智 村田裕子 役所広司

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