アポカリプト

日付:

2007.07.14

 マヤ文明は2000年続いたのだそうだ。紀元前から西暦1519年までである。考えられない長さだ。日本史で言うと聖徳太子の昔から、室町幕府の後期までという長さである。一種の鎖国状態だったのが幸いしたのだろう。中央アメリカの密林地帯に点在した都市群で成り立った文明だった。いわゆる統一国家ではなかったようだ。しかしその文明も晩期に差し掛かり、人口増加に伴い農作物の不足や天候異変が重なり、内部崩壊が激しくなっていた時期の物語である。

ジャングルの小部族がマヤの兵団に襲われ、めぼしい人間は奴隷と生贄にされてしまう。妻子と離れ離れになった青年パウも、マヤの都市に連行される。パウの部族は狩猟民であった。そのころ周辺部族に狩猟民がいたのだろうか。宗教的色彩の強い王権が支配していたであろうマヤの都市国家は、儀礼も活発であったと想像はつくが、生贄にするためにジャングルに入って人間狩りをするというのは信じ難い気もする。それを問わないとすれば、これは狩猟民族と農耕民族の戦いでもある。農耕と狩猟は対立する。農耕は自然を加工するものだが(焼き畑農業だから森を破壊する)、狩猟は自然と共にあるものだからだ。

パウたちが、マヤの都市に辿り着くまでの行程は、この監督の前作「パッション」のゴルゴタの丘を行くキリストの姿と重なる。途中で遭遇した伝染病の少女が予言したマヤ世界の終焉。その言葉の不気味さに終末の恐怖を暗示するのは印象的だ。やがてパウは予言を自ら体現することになる。

飢饉が続き、農作物が不作で、そのために毎日生贄を太陽神に捧げているマヤの都市の描写が物凄い。石灰岩を切り出し、粉にして建物を白く塗りこめている奴隷たちの白粉にまみれた姿や、青色の顔料を体に塗りたくられた生贄たち。赤いピラミッドの頂上の生贄台で殺される生贄の血の儀礼の赤色。まるで極彩色の前衛舞踏の世界に迷い込んだかのようである。

マヤの神官・貴族たちの身体装飾は「300」どころではない。頭に派手な冠を戴き、顔に穴は開け放題、入れ墨は体中入れ放題でほとんど異星人に近い。人々は神官ともどもトランス状態で、生贄の儀式に酔い痴れている。これではまるで悪魔教の殺人儀式で、生贄と殺人とを混同しているかのようだ。(7月下旬にインカ・マヤ・アステカ展を見る機会があった。その印象だと、ここでの生贄の儀式の描写はマヤよりもアステカに近いように思われた。)

生贄とは神(太陽)に捧げる儀式なのだから、神聖なものだったはずなのである。マヤ文明と人身供犠は切っても切れないものだが、それだけではないはずだ。暦などは当時人類史上最高度に発達していたのだ。決して呪術的なものだけではなかったはずの文明である。マヤはここでは人間の夥しい血によって営まれる狂気の暗黒文明として描かれている。

突然の日蝕に解放された生贄パウの密林の逃亡が開始される後半、映画は一挙にサバイバル・アクションと変化する。とにかく良く走る。追う方も追われる方もジャングルを縦横無尽に疾走する。(彼らの容貌がネイティブ・アメリカンなので、昔観たマイケル・マン監督の「ラスト・オブ・モヒカン」を思い出した。彼ら出演者の多くは実際ネイティブ・アメリカンなのだそうだ。)密林のチェイスは、パウにとっては勝手知ったる自分の庭、追っ手を一人一人倒してゆくのはなかなかの迫力だが、ラストの追手のリーダーとの対決はやや駆け足気味のご都合主義に終わっている。追跡の果てに海へ出た彼らは、決定的な滅亡の予兆をそこに目の当たりにすることになる。

文明とは無縁の、「森の人」たる主人公パウとその家族は、文明の滅亡を見ることもなく再び森の奥に帰ってゆく。「アポカリプト」とは「新たなる時代」という意味だそうだ。それはパウの家族にとってなのか、それとも・・・。監督のメル・ギブソンは、かなり熱心なキリスト教徒らしい。スペイン艦隊に神父の姿があるのは、暗黒の文明に「イエスの教え」と「神の栄光」を広めるためにということなのだろうか。いずれにしろ映画は、暴力と征服の歴史の繰り返しを暗示したまま終わる。とてもハッピーエンドとはいえない。

 字幕・林 完治


 ●監督◎メル・ギブソン
 ●製作◎メル・ギブソン ブルース・デイヴィ
 ●脚本◎メル・ギブソン ファラド・サフィニア
 ●音楽◎ジェームス・ホーナー
 ●主演◎ルディ・ヤングブラッド
 ●共演◎ダリア・エルナンデス ラウォール・トゥルヒロ ジョナサン・ブリューワー
    
映画見よう見まねへ戻る