アメリカン・ギャングスター

日付:

2008.02.18

長い。長いはずだ。157分もある。スコセッシの「ディパーテッド」も長かったが、これも負けず劣らず。あたかも向こうを張ったかのようである。片や潜入捜査官の話、片や麻薬取締の話だ。この映画、タイトルが陳腐でイマイチ意欲が湧かなかった。しかし、この長尺を語り切ってしまうのは、さすがに当代の巨匠リドリー・スコットの力業。

ベトナム戦争(1959〜1975)の只中、麻薬業界の新しいカリスマ、フランクが作り出した組織は、マフィアを手本にした黒人版「ゴッドファーザー」ともいうべきもの。直接タイのバンコクへ乗り込んで麻薬を買い付け、アメリカ軍を経由して密輸し、直営の精製工場で純度の高いブルー・マジックというブランドを立ち上げてしまう。産地直送なので中間マージンがなく、価格も手ごろで高純度。元祖家元のマフィアそっちのけで、麻薬の流通革命を起こす。それにしてもアメリカ軍は内部腐敗を起こし、麻薬密輸入の片棒を担いでいるのはヒドイ話だ。

汚職を徹底的に憎む刑事リッチーは、あたかもシドニー・ルメット監督の「セルピコ」(1973)である。これも実在の汚職と闘った刑事を描いた映画だった。1970年代初期という設定もほぼ同じだ。これを書くために、久しぶりに「セルピコ」を見直したら、あまりにも汚職の構造が似ていて、この映画とエピソードが混ざり合ってしまったほどだ。ヤクザも警官もやっていることは同じで、民間人か公務員かの違いしかないのである。ニュージャージーとニューヨークは隣だし、共に麻薬取り締まりをしている。リッチーとセルピコは、ひじょうに近い距離にいたのである。

アメリカ映画(または社会)の伝統として、努力して上に這い上がろうとする強い者に、無邪気に喝采を送ってしまうところがあって、ここに出てくるフランク・ルーカスという実在の悪人もまさにそれである。またリッチーのような、自分の職務を一途に全うする一徹な人間も、アメリカの伝統的人物像である。この2人が敵味方で相対するのだ。

日本映画でいえば、東映実録路線を未だに堂々とやっているようなものともいえる。日本の場合は「仁義なき戦い」にしても、当時公開にブレーキがかかった「山口組三代目」にしても、ここまで娯楽作品として「明快に」撮れないのではないか。日本ではアメリカほど「暴力」が明快ではないからだ。もちろん、この映画には悪に対しては、それをあくまで追求する正義が存在してはいる。だが、悪は必ず存在するのに対して、正義は悪とセットで常に存在するとは思えないのが弱いところである。これは偶々(たまたま)の幸運な実話(ケース)である。

映画の言うところでは、マフィアが100年かかっても出来なかったことをたった一人でやった男と、警察が100年かけて築き上げた汚職の構造をぶち壊した男の対比となる。大袈裟には100年に一度のことなのだ。対比というのは、対決だけではないからだ。最後には2人が協力して警察の汚職を摘発することになるのである。つまり、正義と悪、追う側と追われる側の正反対の人生がある時交わるのである。

映像派のスコットにしては地味なアクション演出である。リアリズムに徹したのかも知れないが、フランクの妻が銃撃されるシーンやクライマックスの麻薬工場への突入場面は、もっとサスペンスが漲ったはずである。「ハンニバル」の冒頭や「ブラックホーク・ダウン」からすれば、これはスコットらしくない。スコット流の演出が鳴りをひそめている。順当な演出だが光るものがなかった。

タイトルからすれば、主演はラッセル・クロウではなくデンゼル・ワシントンだ。GANGSTARかと思ったら、GANGSTERなのだった。ギャングの一員という意味のようだ。デンゼル・ワシントンが酒を飲むシーン、実に旨そうに飲む。フランクのミス・プエルトリコの美人妻やリッチーの別居中の妻などの女優陣に、これといった個性がないのは残念だ。もっとも個性的な登場人物は、ニューヨークの汚職刑事を演じたジョシュ・ブローリンである。それにしてもエンドロールのあとのワンシーンはどういう意味なのだろう。本編とは無関係なのか?BS放映の際要確認。

字幕・松浦美奈


 ●監督◎リドリー・スコット
 ●脚本◎スティーブン・ザイリアン
 ●音楽◎マルク・ストライテンフェルト
 ●主演◎デンゼル・ワシントン ラッセル・クロウ
 ●共演◎キウェテル・イジョフォー キューバ・グッテング.JR ジョシュ・ブローリン アーマンド・アサンテ ルビー・ディー
    
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