福泉寺の歴史


お寺の成り立ち(開山と開基)

ひとつのお寺が起こるには必ず開山開基という二つの存在がなければなりません。
開山は出家(宗教者)であり、
開基は在家の篤信者でその財力と信心を以って
一ヶ寺を建立する檀那(スポンサー)であります。

開山の教えを継いで法燈を守るのが歴代の住職であり、
開基の立場を引き継いで(江戸中期以降)寺院の護持のため
その一員となって役割を果たすのが「檀家」もしくは「檀徒」であります。
そしてその中でも特に出家としての住職の援護者として
親代わりを勤めて下さるのが「菩提親」であります。



◎福泉寺の歴史

福泉寺の歴史は大きく二つの時代に分けられます。
ひとつは開創以来、天台宗の寺であった時代であり、
次に曹洞宗に改宗されてから今日に至るまでの福泉寺時代であります。

一、天台宗時代(草創期)

寺伝や郷土史資料によりますと、
福泉寺のはじめの起りは今から約四百十数年前の天正年間(1573〜1586)
福沢薩摩之守政隆公を開基として開創されたとあり、
そのときの宗旨は天台宗でありましたが、御開山は不詳であります。

開基の福沢氏は代々村上氏の重臣であり、
現在の坂城町大字綱掛字福沢にその居を構え、
戦国の風雲急を告げる天文年間には村上方の軍師(代官)として
塩田城(現在の上田市西塩田)城々主でありましたが、
天文22年(1553)8月6日「塩田城最後の日」を一期に、
村上義清を越後に落ち延びさせる盾となり全滅したとされております。
(武田軍記・高白斉記・妙法寺記等による)

しかし福泉寺の創建はそれから約二十年後でありますから、
そこには生々しい歴史のドラマがあり、
何らかの形で一族の残党は生きつづけ捲土重来を期したものと思われます。

はたせるかな天正元年4月12日武田信玄が亡くなると共に、
北信濃一帯は再び旧来の恩顧である村上への寝返えり現象が続発し、
そうした時代背景の中で、福沢氏の生き残りも又可能であったと考えられます。

その村上義清も相次いで亡くなると、北条氏が関東から東信濃に押し寄せ、
天正10年(1582)には再び村上一帯を舞台に岩井堂合戦が起きます。
ここには福沢氏の父子の名が見える(小野沢家文書)など、
激動の時代を生き抜いた信濃武士のしたたかさが伺えます。

何はともあれその福沢氏が開基となって開創された福泉寺は、
福沢氏一族の先祖累代はもとより、戦死者の菩提を弔うものであったと考えられ、
福沢氏の菩提所として約六十年続きます。
しかしこの頃から福沢氏の名が奇妙にも当地方史の舞台から消えていきます。

この福沢氏によって開創された寺を草創期の「福泉寺」と呼んできましたが、
郷土史資料によるとこれは「慈雲庵」または「慈雲寺」と呼ばれ、
始めは福沢に、やがて越堂に、そして後に網掛の「会所」となった辺りに
所在したとありますが、これは福泉寺の末寺と扱われた時代があることなどから
確かなことは不明で、今後の調査研究が必要です。

現在の福泉寺の本堂が明治になって再建されたにもかかわらず、
その構造にはっきりと「御拝(ごはい)」があり、
この寺が「天台宗」であったことを証明しております。


二、天台宗から曹洞宗へ(過渡期)

福泉寺(もしくは慈雲寺)が創建されて後六十年ほど経過した寛永元年(1624)
山ひとつ隔てた峠の反対側に在った前松寺
(当時やはり天台宗又は真言宗・又は密教二宗合寺といわれる現上田市上室賀)が
焼失し直ちに復興にとりかかります。

当時は国家的庇護のもとにあった密教系寺院が時代と共にその力を弱めてゆく中で、
生死を見つめて戦いに明け暮れる武士・兵士階級の、
心の依り処として信仰を集めはじめていた、鎌倉仏教の禅宗
とりわけ曹洞宗が急成長を遂げていました。
全国各地で衰退してゆく他宗の寺院を次々に改宗・復興してゆく事例は
枚挙にいとまがありません。
室賀の前松寺も又こうした中で曹洞宗に改められました。

御開山は明科青原寺八世州山玄益大和尚で、
はじめ松本瑞松寺の末寺でしたが、
明治初期の廃仏段釈の嵐で瑞松寺が一時廃寺となったため、
明治13年に坂北の碩水寺の末となり今日に至っております。

室賀前松寺の焼失から6年後の寛永7年(1630)、
福泉寺にも同じ様に時代の波が押し寄せました。
つまり天台宗としての六十年の歴史を閉じて曹洞宗に改宗されたのです。


三、改宗(曹洞宗へ)から法燈の発展へ

今から361年前の寛永7年(1630)、
天下は徳川幕府により平定され三代将軍家光の代、
前松寺二世玄国了頓(げんこく りょうとん)大和尚が福泉寺に入り御開山
となり、御釈迦様より達磨大師を経て、道元禅師により日本にもたらされた
正伝の仏法を伝える、曹洞宗の法燈に灯がともされたのです。

この時の開基は石川美濃之守信資公であることが、最近明らかになりました。

前述の福沢氏は、岩井堂合戦(天正10年6月)以後
信濃の歴史の舞台からブッツリと姿を消しますが、
代って石川氏が福泉寺の新しい歴史に関って登場します。

前松寺焼失・復興の過程で何らかの出来事があり、
第二世玄国了頓(げんこく りょうとん)大和尚を促して網掛に入り、
当時福沢氏が遺した(当時衰退していたと思われる慈雲庵(あるいは慈雲寺)
を復興して、今の福泉寺の基を造ったと伝えられています。
(高井家文書・系図)

それ以来、福泉寺は前松寺の末寺となったのです。


四、天保5年の被災から本堂再建

御開山以来、安穏に時は過ぎ法燈11代を数えるに至った天保5年6月15日、
「突如として暗雲天空を覆い、電光が闇を走り、雷鳴耳をつんざいて轟く中、
不幸にして本堂に落雷、一山の堂宇ことごとく焼失す」
と記録にありますので、それはすざまじい状況であったことが伺われます。

当時はまだ寺檀(檀家制度)の確立がようやく実を結び始めた頃ではありますが、
当時の福泉寺の檀家数は旧家四十戸・新家(分家)二十戸とありますから
伽藍の復興などは至難のことでありました。

しかし時の住職や檀徒の強い再建への願いと努力はやがて実を結び、
被災・焼失から53年経った明治20年、ついに再建されたのです。
この時の寄付板を見ますと檀家数86戸、檀外信徒58戸、近隣寺院9ヶ寺など
村内外の多くの方々の御協力を得て実現しております。
誠に仏天の加護と地域有縁の方々の御法愛と唯々感謝あるのみであります。
その本堂が今に伝っておりますこの福泉寺の現在の姿そのものであります。


五、明治・大正・昭和へ

日本が近代への曙として迎えた明治維新も、
仏教界にとっては思いもよらぬ困難と試練となって訪れました。
日本仏教が歴史的に日本固有の神道と様々な場面で融和し
協調して築き上げて来た「神仏混淆」の伝統は、
明治政府の「神仏分離令」により「廃仏段釈」運動となって押しよせ、
各地で寺の焼き払いなどが日中公然と行なわれました。

しかし民族大衆の良心は自らそれらの非に気づき、
明治政府も間もなくその愚策を止めることとなりました。
しかし結果としては、
国民の宗教感覚、敬神崇祖の心に微妙な質的変化をもたらしたことは否めません。

又大正デモクラシーや新しい価値観が生まれる中で、
僧侶自体も妻帯・肉食など本来の出家の姿から、
社会の中に生きる僧俗一体の寺の生活が現実として日常化され、
檀徒の目と自らの求道心の間で葛藤していたと推察されます。

わが福泉寺の歴代住職も、経済的にも困窮し、自ら田畑を耕し養蚕に従事し、
一方で時折の葬祭に法衣を着けるという小寺ならではの辛酸をなめつつ、
この時代を過されたことと思います。
それを思う時、そうしながらも絶えることなく、
絶やすことなく法燈を守られた歴代住職及びそれ支えた檀徒の方々に、
今日この恵まれた時代に生まれ合わせた者として
いかように感謝しても尽くせるものではありません。


歴代住職について

開山 玄国了頓(げんこく りょうとん)大和尚禅師

寛永7年(1630)上室賀前松寺第二世を辞して隠居し、
当地慈雲寺(慈雲庵とも云われ天台宗であった。福沢氏開基)に入る。
おそらく当時衰えていたであろう寺勢を興し、
28年後の承応元年(1658)2月22日に示寂(死亡)している。

また御開山玄国了頓大和尚にはもう一人幼山了全という弟子がいて、
後に慈雲寺を開いたとありますが(坂城町誌)、
福泉寺の歴代の中にその名は無いので、
あるいは天台宗時代最後の住持として慈雲寺にいた僧であろうとも思われますが、
資料に乏しくさだかではありません。

天保5年の被雷によりそれ以前の記録は失われていますが、
以上は寺伝・過去帳奥書・郷土史料によってほぼ明らかなものをだけを記録しました。

尚、当寺としては、寛永7年の御開山入寺を以って「曹洞宗福泉寺」の始まりとしています。


〜以下歴代住職およびその没年〜

開 山  玄国了頓大和尚         承応元年(1658)2月22日
 二世  所當蘭省大和尚         天和 3年(1683)8月18日   
 三世  荘海秀嚴大和尚         正徳 3年(1713)3月20日
 四世  中興 鉄門翁元大和尚      享保20年(1735)12月31日 
 五世  端堂密厳大和尚         寛保3年(1743)3月12日
 六世  大活恵扶大和尚         寛政3年(1791)1月27日
 七世  刈堂玉博大和尚         安永9年(1780)7月4日
 八世  越応智定大和尚         文化6年(1809)8月12日
 九世  再中興  大機萬全大和尚    文化13年(1816)10月24日
 十世  瑞応栄全大和尚          文政9年(1826)11月13日
十一世  宜黙雷音大和尚         安政3年(1856)11月3日   
十二世  再中興  寿嶽洞翁大和尚   明治36年(1903)12月10日
十三世  萬山虎雄大和尚         大正8年(1919)7月12日
十四世  雲外月鮮大和尚         昭和14年(1939)12月31日
十五世  賢道仁学大和尚         大正5年(1916)6月5日
十六世  如解月憧大和尚         昭和29年(1954)10月28日
十七世  龍山俊雄大和尚         平成 8年(1996) 6月26日


◇山号などの由来

福泉寺の山号は『飯綱山』といいます。
これは福泉寺の裏にある通称びんぐし山が、
本来は「飯綱山」(古くは飯縄山)と呼ばれ、日本古来の霊山信仰、
神仏混淆との関りの中でつけられて来た山号を、
ここからとったものと思われます。又山門鎮守は『飯綱大権現」であります。

日本における宗教の歴史をたどれば、
山岳信仰・自然崇拝に源を発しやがて日本固有の宗教を持つに至ったのですが、
そこに大きな歴史的な変動を起こしたのが「仏教伝来」であります。

聖徳太子によりもたらされ日本に根をおろした仏教は、
言うまでもなく「外来文化」でありました。
平安中後期にかけて、神仏習合(すなわち神道と仏教の同体化)の思想がおこりました。
これは、在来と外来の文化を同化させる力に富む日本人の一面を
如実に物語る出来事であります。

すなわち、 日本固有の神々は仏法を悦び、仏法を崇び、
仏法によって業苦煩悩を脱するとえられ、やがては神仏は同体であり、
日本の神々はその一つ一つが仏説に現れる仏たちの化身(権化・権現)であるという
「本地垂迹説」の確立となるのであります。
(この場合、本地が仏であり垂迹が神である「仏本神迹」ですが、
その逆の「神本仏迹」があり神を母体に据えた考え方があります。)
明治五年の神仏分離まで、この考え方は日本宗教史の下地となって来ましたが、
それ以後は各所に名残りをとどめるに至りました。
こうした中で日本の寺院では古来「神」がその寺域を守り、
仏法を守護するという考え方で、必ずその寺の「鎮守」をお祀りして来ました。

そしてそれは多くの場合「山号」にもその由緒が表れてします。
「飯綱神社」は云うまでもなく、北信五岳のひとつ、
上水内郡戸隠村・同牟礼村・長野市にまたがる飯綱山(1917米)を中心に発した
主神「皇足穂命」を祀った神社で本地仏は延命地蔵菩薩であります。

「飯綱大権現」のお姿は「天狗」であります。古来日本各地に天狗伝説があり、
その神通力は深く人間の憧れ、怖れ、崇拝するところでしたが、
「飯綱天狗」は中でも最たるものとして、日本八天狗のひとつで、
しかも天狗番付の東の大関に位置づけられています。

本家であります飯綱山をメッカとして各地に同名の〜飯綱山〜が散在し、
飯綱神が祀られています。
県内には東北信を中心に主なものだけでも飯綱山が四ヶ所、社が約110杜、
県外にも関東を中心に16ヶ所が数えられています。
(長野郷土史研究会刊・月刊「長野」109号)
中でも高尾山薬王院・高崎観音胎内は有名です。
(古くは綱は縄を用いた。又この内宗教法人は17社)

びんぐし山は古地図や現在用いられる公式地図にも明らかな様に、
正しくは古来「飯縄山」であり、頂上には飯綱社が祀られて、
養蚕の増収を祈る神として、『御祈祷札』も多く残されています。
しかしいつの時代か(江戸末期か明治初期)その由緒を曲げて、
土地の一部有力者の手で、地元の一部の姓の氏神として、
京都の伏見稲荷が勧請されて今日に至っています。

「飯綱社」は福泉寺の本堂内に祭られております。
福泉寺が天正年間、土地の守り・霊山飯綱山を臨んで、
あるいは背景にして建立されるに当り、仏法の興隆と福泉寺の安寧とを願って、
飯綱大権現を「当山鎮守」とし「飯綱山福泉寺」としたものであります。



当山開基『福沢氏』考

村上氏五家(分家)の一流として現網掛の福沢を領した福澤氏は、
鎌倉幕府滅亡・南北朝時代の流れの中で塩田荘と関りを持ち始めたことが
「太平記」、諏訪大社「御符礼之古書」にその名が見られ、
特にその後の40年にわたって諏訪上社の数ある諸役の最高位に、
(本家村上氏・飯田伊賀良氏・佐久小笠原氏などと並び)
序せられているところから、その勢いの程が伺われ、
その後もさらに青木村から丸子町をふくむ川西、依田窪を治める
大きな土豪に成長していったのです。
これは当時、坂木村上氏の前進基地として重要な拠点となった
塩田城に在城したことに裏づけられて、戦国時代の幕開けまで続いたのですが、
武田晴信(信玄)の信濃攻略と共に運命の暗雲に包まれることになります。

ところがその間、福澤氏ゆかりの福澤城(現坂城町大字網掛字福沢)は
どうなっていたのでしょうか。

村上義清が開いた村上山満泉寺に現存する屏風絵
(坂城町役場町長室前ロビーにこの拡大コピー有り)には、
室賀峠から摺鉢山辺りに福澤城が描かれ、当時の城主の名として
「福澤薩摩之守」と記されています。
ここが実はその後の福澤氏の命脈を見る大きなキーポイントと思われます。
それは後に記します。

さて一方、天文10年(1541)にはじまった晴信(信玄)の東信濃攻略は、
村上義清との一進一退の中で次第に功を奏し、
坂木葛尾城を陥して義清を一旦は越後に追いやることに成功しました。
天文22年(1553)4月のことと「高白斉記」「大須賀文書」などには記されています。

そして上杉に頼って勢いを盛り返して再び父祖の地に戻った義清と、
信玄の最後の攻防の舞台となったのが塩田城です。
天文22年8月5日に始まり六日に終った総攻撃が福澤氏の命運尽きる日となりました。

奇しくも今も続いている福泉寺恒例の施餓鬼会(今は施食会)が8月6日というのは
果して偶然だけでしょうか。

この日のことを「高白斉記」は『自落』と表現し、
「妙法寺記」は激戦ののち武士はもちろん、
女・子供まで生け捕りの数前代未聞と伝えていますので、
いずれにしてもこの時点で福澤氏は代々恩顧の主君であり、
またさかのぼれば本家でもある村上義清を逃すために
一族郎党身を挺して盾となって全滅したと伝えています。

さてここで、「福泉寺縁起」に記述のとおり、その約20年後に始る天正年間に、
福澤薩摩之守政隆公によって福泉寺が開基されたと伝っておりますから、
果して塩田城主の福澤氏一党は「全滅ではなかったのか?」という疑間です。
いかなる事情・方法にせよ一族の誰かは逃げ延びて身を潜めて時を待ち、
信玄の死を好機としてよみがえったのか?

私は今、二つの視点からこの歴史的ドラマの展開を推理・仮定し、
今後の調査研究の中で、史実の検証に結びつけたいと考えています。

まず第一は、
前頁に書いた「高白斉記」と「妙法寺記」の二つの戦時日記の微妙な合致点です。
一方の「自落」とは、周りの守りや出城をことごとく失った時点で、
戦況不利とみて白旗を掲げるか自刃するか(逃亡は不可)の状況であり、
一方の全員生け捕りは激戦ののちとは言え、伝えられている程、
死人の山を築いた状況ではないということ。
つまり表現は全くちがうものの、
いずれも生き残った者の多くあることを証明していないかということであります。
(余談ではありますが、現在村上地区には福澤を名乗る人は一人もありませんが、
塩田地域には古くから福澤を名乗る古い家系が二〜三流現存します。)

さてもうひとつの視点とは、
当時戦さ激しきこの時代、塩田城主福澤昌景とは別に、
満泉寺屏風絵図に描かれた、福澤薩摩之守(代々あるいは分家)
が存在したのではないか?という見方であります。
これにつきましては、その前後に現在の上平の薬師堂(天田薬師)を立てたのが
福沢某であるとか、また後の岩井堂合戦に於いても福澤氏が父子で登場するなどから見て、
この第2の視点は重要なポイントであると考えます。

只いろいろと調べる過程でわかったことですが、
現在長野県内に現存する福澤姓の方、いわゆる「福澤さん」は830世帯あります。
この人たち全てがいわゆる福澤氏の直系でないことは明らかですが、
しかしその分布は何らかの関りの中でひとつの意味を持つ可能性もあります。
戦国を生き延び、
江戸からひょっとしたら今日に続くしたたかな命脈を生きつづけているのかも知れません。

今後はこうした点に留意しながら調査研究をつづけ、
福泉寺の基を築き今日あらしめた開基家ならびに
その一族累代の菩提を荘厳し慰さめていきたいと思います。



(以上、当山『飯綱山 福泉寺 わが心の寺』より抜粋)



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