天使が居た。
いや、よく看護婦さんを『白衣の天使』と比喩する事はあるだろうが、今回は比喩ではない。
薄暗く、人通りの少ない――いや、人通りの無い道。
この間、大通りの工事が終わってから俺以外の人間がこの通りを歩いているのを見た事が無い。
そこに背が肌蹴た白のワンピースを来た、純白の小さな羽根の生えた金色の髪の少女が倒れていた。
どっきりカメラだろうか、とテレビカメラを探し辺りをきょろきょろする。
それにしても、良く出来た羽根だ。まるで本物みたいである。触れてみると鳥の羽毛のような手触り。
「お嬢さん? お嬢さんっ?」
とりあえず、揺り動かしてみるものの起きる気配無し。
羽根の付け根を見てみると皮膚から生えているように見える、と言うか生えている。
「……本物?」
ふと気が遠くなる感覚を覚えた。眩暈のような、立ち眩みのような……。
このまま放っておくのが正しい判断だろうか? 面倒に巻き込まれるのは御免である。
なのだが――
ちらり、と横目で少女の顔を見る。
整った目鼻立ち、寒い季節にも関わらず薄着な服装、華奢で、美しい金色の髪が少し乱れている。
「…………」
長い――長い思案。
そして、結論が出た。
「…人として、こんな所に置き去りにするのは良くないだろう、うん。良くないな」
俺はそう自分を納得させると自分の着ているコートを羽根を隠すように少女に着せ、抱き上げる。思った通り少女の体は軽かった。
こんな所を見つかれば、まんま人さらいでそのまま刑務所へGOなので出来るだけ人の居ない場所を通り、家へと帰った。
そのまんま自慢だが俺の家は大きい。金に不自由した事は無い。親が資産家であり、俺はそれの一人息子。
だが、それが幸せだと思った事は1度も無い。
親からの愛情を感じた事は無い、俺の親は世に言う愛情代わりに金を渡す親だった。
昔から、俺は勉強はからっきしダメだった。
親の雇った家庭教師から逃げる事を日々のルーチンワークとし、手当たり次第バイトに励んだ。
高校を卒業すると俺はそそくさと実家を出た。息の詰まりそうな家から逃げたのだ。
が、結局親の用意した家で暮らしている。
結局、俺はカゴの中でしか生きられない哀れな小鳥なのだろう。
とまぁ、そんな感じの哀愁に満ちた生い立ちを俺は持っている。
「さて、と……」
彼女を俺が普段使っているベッドの上に寝かせると俺は部屋を出て、1人窓から庭へと出る。
夜風に当たり、夜空を見上げ、煙草に火をつける。
「どうすっかな……これから…」
ふと口から漏れた本音。別に金銭的に、2人で暮らしていく分には全くと言っていいほど問題は無い。
昔から金だけは渡してきた親だけあって、毎月使いきれないほどの金を俺の口座に振り込んでくる。
しかし――
「……あの子とコミュニケーション…取れんのか?」
日本語すら正しく使えていないと胸を張って言える俺に英語やその他の他国言語を使えというほうが無茶だ。
そもそも、彼女の言葉は地球人の言葉のどれかに該当するのか?
もしかしたらテレパシーで意思の疎通をするのかもしれない。
「って…そりゃ宇宙人だ……」
我が身に降りかかった――いや、自分から招いたちょっとした事件に俺は少なからず混乱しているようだ。
「……ま、いいか。あの子が起きてから――――」
悩めばいい、そんな能天気な事を言おうとした時、庭に通じる窓が音を立てる。
「ん?」
振り返り、窓の方を見る。一対の澄んだブルーの瞳が俺を見ている。
俺のコートを着たままの少女が起きてきた。見詰め合う事数秒。
「……おはよう」
煙草を咥えたまま、右手をあげ、挨拶する。
「……………?」
小首を傾げ、少女は不思議そうな顔をする。やっぱり通じなかった。
「……やっぱ通じないか」
苦笑いを浮かべ、俺は懐から携帯灰皿を取り出し、煙草の火を消し、中へと押しこむ。
「寒いだろ? 中へ入るぞ」
とりあえず、ボディーランゲージで意思を使える。
「………(コク、コク)」
俺の意思が通じたのか、黙ったまま彼女は頷く。長い金髪が夜風になびく。
案外、こうした原始的なコミュニケーションのとり方の方が思いを伝えやすいのかもしれない。
俺はサンダルを脱ぎ捨て、寒い庭から暖かい部屋へと戻った。
「君、名前は?」
「…………?」
やはり通じないらしく首を傾げる。その仕草がとても子供っぽくて微笑ましい。
「俺の名前は、久也。分かるか? ひ・さ・や」
俺は自分の顔を親指で指差し、丁寧に発音する。
「………ヒ?」
たどたどしい発音で言葉を発する。
「そう、ひ。…ひ・さ・や」
「シサ…ヤ?」
「違う違う。ヒ・サ・ヤ」
首を横に振りながら、もう1度口の動きを見せて自己紹介をする。
「ヒ・サ・ア?」
「違う。ほら、よぉく見ろ。ヒ……」
「ヒ…?」
俺はうんうんと頷き、言葉を続ける。
「サ」
「…サ?」
「ヤ」
「や」
「ヒ・サ・ヤ。久也」
「ヒサや…ヒサや?」
微妙にアクセントがずれているが俺の名前を言ってくれた。
「久也。そう、俺は久也だ」
「ヒサやっ♪ ヒサやっ♪」
どうやら俺の名前が気にいってくれたらしく、彼女はぴょんぴょんと跳ねながら俺の名前を連呼する。背中の羽根が微かに揺れる。
何だか人の親になったような気がして、とても面白い。
「今日はもう寝るか。君は………って…分からないか」
俺は苦笑し、彼女の手を取り、先ほどの俺の部屋に連れて行き、ベッドを指差す。
「君はここで寝ていいよ」
「ヒサや?」
俺の言葉の意図が分からず、俺に名前を呼ぶ彼女。
「ここで、寝るの」
ボディーランゲージで伝えようとする。が、上手く伝わらないらしく彼女はやはり小首を傾げるばかりであった。
「分からないかな…。君は、ここで、寝るの」
彼女を指差し、そして次にベッドを指差しながら言う。
「……っ!(コクッ、コクッ)」
彼女は勢いよく頷き、笑い、そして俺の手を引き、ベッドに『俺』を寝かせた。
「いや、そうじゃなくて……」
続きを言おうとした俺の隣に寝転がり、彼女は布団に潜りこむと、にこりと笑った顔を俺に向け、猫のように鼻を俺の胸に擦りつける。
そして数分と経たぬ内に彼女は穏やかな寝息を立て、眠ってしまった。
「……ぅー…」
必死に抜け出そうとするも彼女が俺の着ているシャツをしっかりと握り締められているため、動けない。
彼女を連れて来た事に下心が無かった――と言えば滅茶苦茶大嘘になるのだが……。
無邪気な寝顔を見せられ、安心しきって寝ている彼女に手を出せるほど俺に度胸は無い。
仕方が無いので俺は無心になり、眠る事にした。
………………。
しかし無心になる所か、どんどん煩悩が生まれ、俺の頭を支配していく。
………今夜は眠れないかもしれない。
夜が明けるのに――こんな時間を要するとは知らなかった。
朝日の降り注ぐ部屋の中、俺はそう思う。
結局――
一睡も出来ぬまま、朝を迎えてしまった。すやすやと寝ている彼女を恨みがましく見ながら、それでもどこか心踊る感覚を覚えていた。
彼女が握っているシャツをそっと引きぬき、俺はベッドを離れる。
昨日、風呂に入っていないのでシャワーでも浴びようと俺は風呂場へと向かった。
風呂を上がり、新しいシャツに着替えた俺は風呂場を後にする、と――
「ヒサやっ! ヒサやッ!」
いきなり、家の中に響く大声。俺は何事かと思い、声の主の元へと向かった。
「どうし……」
部屋のドアをあけ、様子を見るとそこには部屋中を引っくり返して何かを探している彼女が居た。
「…たんだ?」
と、言うと、彼女は俺に顔を上げる。その上げた彼女の顔には微かに涙が浮かんでいた。
「ヒサやっ!」
ドンっ、と言う衝撃が俺の体に加わる。彼女が俺の体にタックルを食らわしたのだ。
「ヒサや、ヒサやっ!」
唯一知っている単語を繰り返し、彼女は俺に何かを伝えようとする。
「おい、どうしたんだ?」
無駄とは知りつつもそう訊ねずにはいられない。彼女の顔がとても不安そうで、寂しそうな事に初めて気が付いた。
もしかして……。
「俺の事、探してくれてたのか?」
「…ヒサや……」
ただ、それだけを繰り返す彼女の頭をそっと撫でる。彼女は段々と落ち着きを取り戻し、無邪気で無垢な笑顔を俺に向けた。
そして観察した結果、彼女の生態が少しだけ分かった。
彼女は子供だ。
いや――別に年齢とかそういう意味じゃなくて、精神的に子供っぽい所がある。
例えば俺が普段飲んでいるブラックコーヒーを飲ましてと、せがんだので飲ませると思いっきり眉を寄せ、顔をしかめる。
甘い物を食べさせると満面の笑みを浮かべる。
味覚についても人間の子供と同じだ。
特に甘いものが好きで、チョコレートやイチゴジャムとかがお気に入りらしい。
不思議なものには(と言うか、彼女から見れば全部が全部不思議なのだろうが)目を輝かせ、俺に説明をせがむ…ような行動を取る。
使い方を教えるとすぐにそれを覚える。
もうすでに箸やスプーン、フォーク、ナイフなどの使い方を覚えた。
生活に最低限必要な事を一通り、身振り手振りで教えた。
それだけでも数時間掛かったのだが……。
「それじゃあ、お留守番を頼むぞ」
「………ヒサや?」
首を傾げる仕草にはもう見慣れた。俺は彼女の服や食料、その他雑貨を買いに行くのだ。
一瞬、彼女を連れていこうかと思ったのだが…。
この鎖国根性の抜けてない日本では金髪でブルーの瞳の彼女は目立つ。万が一にでも羽根を見られようものならばかなり困る。
そう言う事で置いて行く事にしたのだが…。
先ほどの、シャワーを浴びている時にもあんなに取り乱したのに、大丈夫なのだろうか?
………。
「ほら、これでも見てな」
テレビのスイッチを付け、俺は彼女の興味をそちらに向ける。
「………ヒサや?」
不思議そうにテレビを覗き込み、画面に手を触れたり、顔を近づけたりする。まるで猿が鏡を見たときのような反応を示す。
だがそれに熱中したのか、彼女は俺の名を呼ばなくなった。
テレビに食らい付きながら見ている彼女を確認すると、俺は買い物に出かけた。
適当な服を買い、食べ物を買うと随分な量になり、両手が買い物袋でいっぱいになる。
すでに日が傾いている。短気な俺にしては珍しく、随分と長い事買い物をしていたようだ。
「お、重い………」
ふらふらしながら俺は家へと向かった。彼女が首を長くして待っている事だろう――
「ただいま」
俺は買い物袋で塞がれた両手をどうにか駆使し、ドアを開ける。すると――
「お帰りなさい、あなたっ」
「おう、ただい………」
ふとそちらを見ると、彼女がエプロンをして笑顔で俺を出迎えた。
………。
「ななななななっ!?」
俺は思わず後ずさりしながら、彼女を見る。彼女は微笑みながら続けた。
「あなたっ、ご飯にしますか? お風呂にしますか? それとも…わ・た・しっ?」
思わず最後の選択肢を即答しそうになる自分を必死に押し留めながら俺は彼女を見る。
どこも変わっていない、変わっていないのだが……。
「……ど、どうして…?」
「何が?」
会話が成立しているのに、思わず身振り手振りを交え語ってしまう。
「どうして、喋れるっ? 元々喋れた?」
俺がそう尋ねると、彼女はいつものポーズ――首を傾げながら俺の方を不思議そうに見る。そして――
「お帰りなさい、あなたっ」
再びその台詞を言った。……まるでカセットテープか何かに録音したかのように…。
と、その時部屋の奥からテレビの音が聞こえる事に気づく。
「まさか……」
俺は靴を脱ぎ、買い物袋を玄関に置いたまま、中へと入る。
するとテレビには……その、何て言うか頭の悪いメロドラマがやっていた。
背筋の凍るような甘ったるい台詞とイチャイチャベタベタする頭の悪そうな夫婦役の見覚えのある俳優、女優達。
「……これの台詞か?」
俺は親指でテレビを指しながら横目で彼女を見る。彼女は再び食い入るようにテレビを見る。
こういうのは子供の教育上良くないって、どこぞのオバはんが言うのが本当によく分かる。
俺は黙ったまま、他の――教育上良さそうなお子様向けの科学番組に変える。
……もしかして、数日テレビを見せておけば普通に会話出来るようになるんじゃないだろうか?
俺の予想は見事当たった。
数日、と言わずに1日テレビを見せた結果――
「ヒサや、お腹空いたっ」
「ああ、今作るから、ちょっと待ってろ」
普通に、それでも少し子供じみた言葉遣いが何故か似合っている。
「ヒサやっ! お腹空いたぁ」
「分かったって……」
俺の背中にしがみ付き、彼女はゆさゆさと体を揺らす。そう、まるで子供のように。
「そう言えば……」
食事の手を休め、俺は彼女を見る。彼女は卵焼きと無言の格闘を繰り広げている。
「君、名前は?」
「ナマエ? …ヒサや」
「それは俺の名前だ。君の名前は?」
「ナマエ………」
お決まりのポーズを取り、彼女は考え込む。どうやら名前が無いらしい。
「不便だな…。俺が名前を決めてやろうか?」
「ヒサやがっ?」
うんうん、と頷きながら彼女はとても嬉しそうな顔をする。そこまで嬉しそうな顔をされると俺も適当な名前が付けられないじゃないか。
「…とりあえず、考える時間をくれ」
名前。人に名前を付け与えるなど初めてである。緊張しないと言えば思いっきり嘘になろう。
名前………。
俺の名前、久也。……名前。
「沙耶華……で、どうだ?」
「さやか?」
「お前の名前だ。お前の名前は沙耶華。さやか、だ」
「さやか。…さやかっ」
一目で喜んでくれている事が分かる。――何と無く思ったのだが、彼女はどんな名前を与えても喜びそうな気がする。
それはさておき。
金髪の少女に日本人の名前をつけるのはいささか抵抗があった。でも――女性の名前は、それしか思い浮かばなかった。
「その名前。沙耶華って名前な。俺の母さんの名前なんだ」
「カアサン?」
「俺の母親。ママの事だよ」
「ママ? ヒサやのママ?」
「そう、久也のママの名前だ」
「さやかっ。ヒサやのママっ。私、ヒサやのママ」
…それは違う。
「そういや俺、母さんの顔とか覚えて無いんだよな…。俺が生まれてすぐに亡くなったって訊いた。写真だって見た事無いしな…。
でもきっと……君みたいに明るい女性だったんだろうな」
独り言のように呟いた俺の言葉を彼女――沙耶華は不思議そうに聴いていた。
「独り言だ。気にするな、沙耶華」
頭を撫でながら、俺は言った。沙耶華は嬉しそうに目を細める。
「因みにな、俺の名前は母さんの名前、沙耶華から取ったんだ。だから俺とお前の名前はおそろいだ」
「おそろいっ。ヒサやとさやか。おそろいっ、おそろいっ」
彼女はどんどん成長していく。
砂漠の砂の上にこぼした水のように、瞬く間に様々な知識を身につけていった。
料理も覚えた。日本語はほぼ完全に伝わるようになった。掃除や洗濯、家事全般を沙耶華がこなす様になっていった。
彼女は数多く覚えた料理の中でも、肉じゃがを得意とした。俺は肉じゃがなんて食べた事無かったのだが…。
気が付けば、沙耶華が作ってくれた肉じゃがが何よりも好きになっていた。
俺が「美味いよ」と言えば、彼女は本当に嬉しそうな顔をする。
幸せだった。とても、とても幸せだった。どんどんと彼女は知識を増やしていく。
でも、知識が増えても俺の名前の発音は微妙に違ったままだ、彼女がその発音を気にいっているならば俺は何も言わない。
彼女が好きなものは、俺も好きだから……。
成長しているとは言え、数日に1回は同じベッドで寝る事がある。と言うか、俺が寝ていると何時の間にか布団の中に侵入してくるのだ。
彼女はまだまだ子供だ。でも、それは――
俺は沙耶華にパソコンを買い与えた。今の俺では沙耶華に教えるほどの知識は無い。
だからインターネットに繋ぎ、そこから知識を得られれば、彼女は喜ぶだろう。
彼女が喜ぶ姿を見られるなら、安い買い物のはずだった。
彼女は本当に頭が良くなった。未知の世界から得る情報を本当に正確に覚え、それを自分なりの方法で纏め上げる。
蓄積していった知識をもとに、彼女は『自分で創り出す』知識を得た。
無かったものを創り出す。彼女はそんな事までし始めた。それも、俺を喜ばせようとしての事だったのだろう。
だが、俺は……。
「ヒサや。出来たよ」
沙耶華は掌に乗った錠剤のようなものを俺に見せる。俺は今、風邪を引いてしまい床に伏せっているのだ。
「これ、風邪のお薬。私が作ったの」
俺は黙ったままその錠剤を水で飲む。数分経った頃には俺の体は健康に戻っていた。そう、彼女の創り出したのは風邪の特効薬。
科学的に不可能とも思えるものを彼女はいとも簡単に創り出してしまう。
それが、今の沙耶華の頭脳である。
俺はそんな沙耶華に劣等感を抱いていた。俺は彼女の言う事を既に理解できなくなっていた。
沙耶華の頭脳は俺がどれだけ手を伸ばしても届かないほど、遠くへと行ってしまっている。
どんどん高みへと向かって行ってしまう沙耶華に、俺は畏怖さえ覚え、そして疎外感を感じていた。
彼女はいつか、俺なんかを捨ててどこかへ行ってしまう。
だって彼女には、1人で生きるには十分の――十分過ぎるほどの知識がある。
いや、もしかしたらもう既に俺の事を心の中であざ笑ってるのかもしれない。無垢で純粋な笑顔の裏で彼女は俺を嘲笑している。
『馬鹿な男』と。
ふと、彼女と暮らし始めた頃の事を思い出す。
あの頃の俺は無知な沙耶華に対し、優越感を感じていたのではないだろうか?
傲慢な考え方で、彼女に知識を植え付ける。そんな自分に酔いしれていたのではないだろうか?
しかし、その結果。彼女は俺を追い抜いていった。そして感じた劣等感。
彼女に触れられる事に嫌悪感を抱くようになってから、かなりの時間が過ぎた。
出来るだけ、彼女の側を離れる事にした。どうせ彼女の言葉は俺には理解出来ないのだから。
彼女も知識を得る作業が楽しくて仕方ないのか、それに夢中になっている。
料理も凝ったものに変わっている。が、どれも美味しくない。
彼女の味付けは完璧だ。それなのに美味しくないのは彼女の作ったものだからだろうか?
だんだんと、そうだんだんとそれは積もっていった。
「ねぇ、ヒサや。私――」
「煩いっ!」
俺の中で何かが弾け、爆発した。
「え…? ヒサ…」
「俺の名前を呼ぶなっ!」
「っ!?」
酷く悲しげで驚いた顔をする沙耶華。その表情が今の俺には憎たらしく見える。
「どうせ俺の事なんて馬鹿な奴とか思ってるんだろっ! お前の言ってる事は訳分からねぇよっ! そうやって俺に理解出来ない事を言って、俺の反応を見て心の中で笑ってるんだろっ!」
「私は…そんな……ヒサや…」
「俺の名前を呼ぶなって言ってるだろっ!」
全部、全部ぶちまけた。
「お前がいると俺の無能さが浮き彫りになるんだよっ! 居なくなっちまえっ! お前なんか、居なくなっちまえばいいんだっ!」
「ッッ!?」
彼女は戸惑っていた。しかし頭に血が上った俺には彼女の思いを理解するなんて、到底出来なくて…。
「いいよ、じゃあっ! 俺が出ていくよっ!」
俺はそう叫び、家を飛び出した。
手持ちの金でホテルに泊まり、数日家を開けた。
次第に頭が冷え、自分の愚かしさに気が付いた。彼女はいつだって俺のために学んでくれていたんだ。
俺を喜ばせるために、俺に楽になって欲しいがために、俺に幸せになって欲しいがために、彼女は知識を得ていたのに……。
俺はホテルをチェックアウトすると急いで家へと向かった。
今なら、まだ間に合う。何度でもいい、許してくれるまで謝って、彼女と――沙耶華と元の生活に戻るんだ。
幸せだったあの日々をもう1度。
でも――
家はがらんとしていた。
洗濯され、掃除され、綺麗になっている室内。でも――足りない。
居なくなっていた、彼女は居なくなっていた。
どこを探してもいなくて……。
以前のような帰ってくると料理の美味しそうな匂いと、彼女の「お帰りっ」という言葉はどこにも無かった。
テーブルの上には書置き。
「……そういえば、字の書き方なんて教えてなかったっけ…」
ヘタクソな字でただ一言だけ書かれていた。
『ごめんなさい』と。
「…………沙耶華は悪くないだろ……どうして…沙耶華が謝るんだよっ……」
その隣に小鉢に盛られた、冷めた肉じゃがが置いてあった。俺はそれをレンジで暖め、一口頬張った。
でも、その肉じゃがはいつもより……しょっぱかった。
涙が零れ落ち、床で弾ける。その時自分の仕出かした事の大きさに今更後悔した。
また1人になってしまった。
彼女は俺から孤独を奪い、別の何かを与えていたのだ。
再び孤独を噛み締めた時には、初めて孤独だと思った時よりも大きな苦痛があった。
天使が去った日。偶然か、それは俺の誕生日だった。
あれから数ヶ月、季節は変わり…春。
俺は毎日のように、彼女の倒れていた通りを歩く。それが無意味な行動とは理解っていた。
彼女は居ない。でも、微かな望みを胸に抱いて俺は歩いた。
彼女に会ったらまずなんと言おうか。悩むまでも無い、そんな事決まっていた。
何度でも、何度でも謝るのだ。許しを請う為、もう1度やりなおすために。
本当に――ごめんな、沙耶華。
俺は…俺には……お前が必要なんだ。
あんな事言って……沙耶華を傷付けた……。
我が侭で、自己中で、本当にダメダメな俺だけど……。
側にいて欲しい。ずっとずっと側に……。
本当に……ごめんなさい。
家のドアを開けるといつもの香りがする。
心が安らぐ香り、肉じゃがの匂い。微かに焦げたような匂いもする。
珍しく――失敗したか?
「あ、お帰りっ」
ただいま。
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