松田家は江戸時代には北国街道で善光寺手前の旅籠の中継地区とし加賀前田藩、他参勤交代で栄えたと信州牟礼宿です。    我が家は松代10万の御用商人をし明治に入り製糸工場を起こし,松代藩  六項 ,
韓国との取引も有りましたが故喜六はこれからの日本の食べ物のことを考え西欧のリンゴに目を付け長野に取り入れました   市太郎、善三郎、子供2名も1人は現在の農大 もう一人は大阪の外国学校といましたが   
市太郎に、自宅 善三郎には髻地域に10の町歩とリンゴ畑を購入し栽培を始めました。 現在の飯綱町 平井で水の少ない場所水田が少なく松田善三郎はリンゴなの指導し多大な影響力を残し博物館に名前を残してもらいました。


父は和30前半若槻農協の組合長を歴任し時に初代長県経済連リンゴ部会と長野県のリンゴ発展に貢献し退任ごは、 リンゴ移出業に転換しおもに 九洲に出荷しておりましたが、57歳との若さで亡くなりました。其の後私が引き継ぎましたが出荷業が大手スーパーの市場の前渡で数卸し、小売と


<松田農園は当地区長野で明治時代から始め100年の歴史があります。 さまざまな苦労を経てりんご畑1.4ha、さくらんぼ畑30a、プルーン10aと栽培して現在にいたります。



当農園は1とつ1とつ手を懸け量は少ないですがどの木の果物かだいだい分かるよな生産をしている
つもりで頑張っております。  
果物よっては一部市場仕入れの場合もありますが、リンゴは全部自園で責任を持っております。   畑はここ数年化学肥料もしくは有機物等は入れておらず、雑草は除草剤は使わず草刈は機械で刈り   草は畑に戻し畑の土は健康だと思います。


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りんごは医者知らずヨーロッパでは言われていますが、1個(大きさ150g〜250g)日本のサンふじは酸味が少なく
甘すぎますが,糖尿の人は、少し酸味のある物を選ぶと良いでしょう





昭和10年頃りんごを献上の時の写真(故市太郎)(大鳥)林檎の種類


我が農園の、りんご作りの歴史は4代前の(故喜六祖祖父)に始まり、市太郎(祖父)の時代には昭和天皇にりんごを献上し名実 長野県の林檎作りをリードしてまいりました。今後、皆様に安心して食べられるくだものを生産するよう心がけてまいりたいと思います。





松田善三郎は髻のりんご栽培技術を飯綱町の平井でに指導し今現在にいたっております。   松田喜六は地元のお宮、お寺などに進んで寄付をいたしました。   特に地元蚊里田八幡宮には能舞台に寄付、進んで行っていました。  父は30台初めで若槻農協の組合長を歴任初代園芸りんご部会長を長野県のりんご発展に尽くしました。  後に自分でリンゴ移出問屋を立ちあげましたが、57歳と心半ばで亡くなり、其の後私が継ぎましたが  15年前からインターネットでお客様の見える仕事をしたいと、りんご、桃、さくらんぼ、プルーン など栽培、販売を始めました。  今ではわざわざ、神戸、新潟、関東方面の方々がリンゴの時期になりますとお出でになります。  






昭和30年頃の写真でりんごの大きさ 普通のりんごんの4倍(故弥六)信濃毎日新聞に載つた写真


松田弥六は(父)30代で(旧)若槻農協組合長を歴任し、初代長野県経済連りんご部会園芸専門委員長になり林檎の生産,販売に力に入れました。












松田善三郎の頌徳碑(碑文は農学博士 島善隣)

松田善三郎は(祖父)桃、さくらんぼ、和梨を試植し独自の剪定を案出し、或いは肥培管理の妍究に半生を捧げ、りんごの縮果病を克服し信州の果樹発展に尽くす。



松代藩で江戸時代から昭和にかけて、松代藩では生糸の生産が盛んになり、明治6年には旧藩士 大里忠一郎が、    蒸気製糸(六工社)を設立してから製糸業は本格化し、最盛期には近郊もふくめ女工3,000人を擁する主要産儀でした    我が家では4代まえの明治初めの松田市右門(2代市右門)の時に製糸を始めた。
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佐渡金山の採掘を本格したころからいつそう大事にされてきました。慶長16年(1611)には、松代藩上代だった花井吉成の手で牟礼宿から   善光寺、丹波島、矢代を通る新ルートが開かれた。





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