須田城址 (須坂市小山町)

@別称 なし A創築年代 室町時代 B創建者 須田氏 C形式 山城 
D遺構 郭、堅堀、土塁、町屋跡、水道跡 E規模300m×500m
 

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屋敷跡

  屋敷跡は城の北方直下にあるが、東を臥龍山、

南を城山に囲まれており、これらの山を天然の防

御施設としている。屋敷跡地は、昭和6年に人造湖

が造成され、現在は龍ケ池となっている。

 

 

 

 

 

第13代須坂藩主堀直虎公霊廟

   堀直虎 堀直虎公は、幕末時若年寄として活躍。

    意見対立により、江戸城中において自刃。

   堀家の菩提寺である興国寺が臥竜山にあるため、

  ここ臥竜山中腹に霊廟がある。

 

 

 

 

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臥竜山全景

     手前を流れる百々川の形成する須坂扇状

地の扇丁部分に独立峰の臥竜山があり、須田

城は、その南西尾根にある城山に構築されてい

た。

  須田城があった臥竜山は、現在、動物園、テ

ニスコート等があり公園として親しまれている。

 

 

 

土塁跡

  山城と屋敷群を取り囲むように西側に土塁が

設けられていたが、現在、拡張され龍ケ池の土手

となっている。

  この土手には桜が植えられ、県内でも有名な

夜桜の名所となっている。

 

 

 

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須田城址

   築城は室町時代。城主の須田氏は、井上氏

       から分かれている。

   武田氏の信濃侵攻と共に城主須田満親は村

上義清と越後に逃げ、上杉家の家臣に組み込

      まれる。

     1600年(慶長5年)廃城。

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堀 直 虎 (1836年−1868年)須坂藩主、若年寄。須坂藩11代藩主直格の第5子。兄直武の隠居で13代を

        継ぐ。兵学を赤松小三郎に学び、自ら「英国騎兵練兵所」の翻訳に着手したという。兄の養子とな

        り、40人処分(3人切腹)の藩政改革、財政整理を行った。洋式大砲を試射し、洋風を好み唐人堀

        と称された。大番頭をへて若年寄兼外国奉行に任ぜられ、幕閣内内での存在が認められていった。

        この間、関東一帯で後方かく乱を企てる薩摩屋敷の討伐を主張、江戸在勤の酒井藩兵を出動させ

        た。将軍慶喜が鳥羽・伏見の戦いに敗れて江戸に逃げ帰ったときは、小栗上野介らとともに断固抗

        戦を主張したらしいが、慶喜の態度がはっきりしないので、江戸城内のかわやの中で割腹自殺を遂

        げた。藩では、慶喜に恭順をすすめての諌死であると弁じ、かつ官軍について東北討伐に出兵する

               などして、ようやく藩の存在が認められた。

須 田 氏 「尊卑分脈」によれば、井上氏の一族で、井上満実の子為実にはじまる、鎌倉時代以来の武士で

        ある。初期のことはわからないが、須田小太夫は源頼朝の随兵を務める御家人であった。須田氏

        が領主的に発展するのは、室町時代に入ってからであり、近隣の井上氏と抗争しつつ次第に所領

        を拡大するが、その本拠は大岩郷(現須坂市)であった。戦国時代になり、武田信玄の進出により

        一族が分裂し、惣領家の満国、満親(満国の子)は越後に去った。満親は相模守と称し、上杉景勝

        に重用され、海津城代1万2000石の大身となった。しかし、上杉氏の会津移封に従い、満親なき

               あと、長義は会津において一時2千石を領した。

 

 

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