堀 直 虎 (1836年−1868年)須坂藩主、若年寄。須坂藩11代藩主直格の第5子。兄直武の隠居で13代を 継ぐ。兵学を赤松小三郎に学び、自ら「英国騎兵練兵所」の翻訳に着手したという。兄の養子とな り、40人処分(3人切腹)の藩政改革、財政整理を行った。洋式大砲を試射し、洋風を好み唐人堀 と称された。大番頭をへて若年寄兼外国奉行に任ぜられ、幕閣内内での存在が認められていった。 この間、関東一帯で後方かく乱を企てる薩摩屋敷の討伐を主張、江戸在勤の酒井藩兵を出動させ た。将軍慶喜が鳥羽・伏見の戦いに敗れて江戸に逃げ帰ったときは、小栗上野介らとともに断固抗 戦を主張したらしいが、慶喜の態度がはっきりしないので、江戸城内のかわやの中で割腹自殺を遂 げた。藩では、慶喜に恭順をすすめての諌死であると弁じ、かつ官軍について東北討伐に出兵する などして、ようやく藩の存在が認められた。 須 田 氏 「尊卑分脈」によれば、井上氏の一族で、井上満実の子為実にはじまる、鎌倉時代以来の武士で ある。初期のことはわからないが、須田小太夫は源頼朝の随兵を務める御家人であった。須田氏 が領主的に発展するのは、室町時代に入ってからであり、近隣の井上氏と抗争しつつ次第に所領 を拡大するが、その本拠は大岩郷(現須坂市)であった。戦国時代になり、武田信玄の進出により 一族が分裂し、惣領家の満国、満親(満国の子)は越後に去った。満親は相模守と称し、上杉景勝 に重用され、海津城代1万2000石の大身となった。しかし、上杉氏の会津移封に従い、満親なき あと、長義は会津において一時2千石を領した。
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