?? 歴史ロマンとミステリー 謎の安曇族伝説

安曇野の歴史は水と山の人との関わりを教えてくれるものです。縄文の昔からここには山があり、水が絶え間なく湧き続けていました。

●穂高神社の不思議 ●その後の安曇族 ●日本人の二重構造モデル
●八面大王の伝説 ●白村江の戦いと安曇連比羅夫 ●安曇野の縄文集落 北村遺跡
●志賀海神社 ●9月27日 お船祭り ●古の海洋民族
●宗像神社 ●上高地/明神池 ●マンモスハンター
●宇佐八幡宮と住吉大社 ●道祖神信仰 ●北部九州東西地域
●玄界灘二つのルート

路傍に立つ道祖神は

道祖神 安曇野市には全国でも珍しいくらいの数の道祖神が今でも散在しております。その数は600に迫るほどです。道祖神はそこかしこの路傍にあったりします。気がついたらそれは道祖神だったといった具合です。 但し目当てに探し回っても案外見つからないもの、出会えたら由としましょう。塞の神信仰が形を変えたものです。勿論にいろいろな信仰が混じり合ったもので、素朴な民間信仰の特徴かも知れません。安曇野の場合、道祖神の形のものがたくさん残っています。ほとんどのものが江戸中期からのものです。この形になる前の信仰の形がどんなものだったか判りませんが、神代海洋民族のひとつ宗像海神さまは道の神でもありました。これも興味あることです。参考に道祖神マップがありますのお申し出下さい。

古東山道 天平の高速道路

 平城京などから発見される木簡には信濃の国安曇郡からの荷札がみられる。安曇氏は内膳司長官として朝廷に使えていただけに安曇郡の穂高安曇族は朝廷に向けて荷を送っていたことは疑い得ない。一説には信濃川を遡上する鮭が安曇野で確認されている。長い内陸遡上した鮭は脂身が抜けて出汁に向いていたのだそうだ。鰹節のまだ無い時代には貴重な出汁の元となっていたそうだ。おそらく安曇族は犀川を遡上した鮭を天日乾燥させ, 都に送っていたのだろう。その上奏に東山道を通っていったものと思われる。

古の海洋民族

最終氷期の2万年前にはスンダランド(南シナ海を含むスマトラ、インドシナ地域)から原アジア人(新人)が大陸を北上したり、島弧伝いに海流に乗って拡散しました。海退と海進を繰り返えし大陸と島嶼は地続きになったり、隔離されたりしました。スンダランドの人々は徐々に拡散していきます。その一部は海洋民族となり、海流沿いに日本列島を目指します。8000年前には対馬気流が黒潮と分流し日本海側にも人々が入りやすくなります。 九州南部の海上、「鬼界カルデラ」で巨大噴火が7300年前に起こります。当時の縄文文化は九州中心に一旦死滅しました。それに引き替え、「北のまほろば」と司馬遼太郎さんが名付けた青森山内丸山遺跡の縄文都市が繁栄したのが5000年前くらいです。気候の条件が今とだいぶ違いました。山の実りは豊かで海は魚介の宝庫でした。稲作がなくとも栗粟農耕と採集捕獲で多くの人口を養えたのです。日本列島の人口密集度は明らかに西低東高でした。

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日本人の二重構造モデル

 「日本人の成り立ち」を考える上で見えてきたことに縄文人、弥生人の混合と言うことがあります。生物学的にも考古学的にもそれ無しでは考えられない証拠が多数指摘されてきました。言い換えれば原日本人集団に渡来系集団の混交です。原日本人とはスンダランド(南シナ海を含むスマトラ、インドシナ地域)から発した海洋民族、数万年前から日本列島に定着し続けた石器時代人で、青森の山内丸山など縄文文化を育んできた集団です。そこへ二千年位前に急激に大陸から渡来してきた集団は米作に長じ、金属文化をたづさえてきました。両者の相互関係は日本古代史の根幹に関わる影響を与え続けてきたのです。

安曇野の縄文集落 北村遺跡

 長野道明科トンネル入り口付近から80年代後半に長野道の工事現場で300体もの人骨が発見されました。安曇野の北東部、犀川東岸の傾斜地にたいへん人口密度の高い地域が縄文中期、4000年位前の安曇野に存在していたと推量されています。内陸山間部でこれだけの人骨が集中して発見されることは希で多くの縄文人人骨は海岸部で発見されている。海岸部縄文人との差は歯に歴然と現れ磨り減り具合から豊かな植物性資源が窺えられるそうです。

安曇野の穂高神社の不思議

穂高神社本殿  3000メートル級の山が聳える北アルプスの麓に広がる安曇平、そのほば中央部に安曇野市旧穂高町にその名前の由来となった穂高神社があります。旧い地名では保高、とか保嵩とか書かれていたそうです。おそらく「穂高」は神社の名称ですので避けられていたのだと思います。このような山国にある神社が安曇族の氏神であったのです。

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八面大王の伝説 魏石鬼の岩屋

魏石鬼の岩屋  安曇野には今でも語り伝えられている伝説があります。穂高神社が安曇族の守り神なのですが、伝説はこの土地の有力な大王、「八面大王」の存在です。彼が元もとこの安曇野の地に有力な勢力であったらしいのですがやまとの坂上田村麻呂に攻め滅ぼされたとあるのです。八面大王はいったい安曇族だったのでしょうか、それとも安曇族以前の有力大王だったのでしょうか。一切そのことを明らかにする文献はありません。確かなことは八面大王が大和政権にとってはまつろわぬ勢力であったことは確かなようです。この地域の小字には引きちぎられた大王の遺骸を埋めたという地名がたくさん残っています。

白村江の戦いと安曇連比羅夫

 穂高神社には本殿の右隣に若宮という小いさな社があります。安曇連比羅夫(あずみのむらじひらふ)記紀神話の中で百済の攻防の中でヤマトの水軍の将として登場します。白村江の戦いで亡くなるのですが、その命日が9月27日と言うことで毎年その日に祭礼、御船祭りが行われています。いつの頃から始まった祭礼かは判りかねますが山車は船の形をし、その船同士をぶつけ合うのをクライマックスに祭りは終わるのです。この山国に海戦を模したお祭りです。

阿倍引田比羅夫は誰?

 7世紀中期(飛鳥時代)の越国造、将軍であった人物に阿倍比羅夫がいます。日本書紀にその記述があります。越は今の福井県から新潟県にかけての日本海に面する古くから歴史に登場する地域です。ヤマトの朝廷の6世紀頃の天皇に継体がいます。突如、近畿ヤマト王権に顕れ、その後の天皇家の祖とも言える天皇です。継体は越の出自ながら中央に君臨し続けることになります。ヤマト王権の最大事件です。阿倍比羅夫は越系の有力者で、面白いことに天平の頃には日本海側を北上し蝦夷攻略に艦船を率い他将軍なのです。653年(天智2年)白村江の戦いにも将軍として登場します。安曇連比羅夫と同様です。その後の史記編纂にあたって取り違えられたのかどうか、同名の人物なのか。安曇連比羅夫は北九州の出自ながらヤマトの将軍として中央に力を持った時期もあるわけですから、イメージが重なります。

9月27日 お船祭り

御船祭り  海戦をイメージした祭りが行われるのは地区毎に山車が用意され数台が参加します。昔は安曇地域で何十台もの山車が造られたと聞いています。祭りの後で山車は解体され台車のみが保管され、次の祭りに使われるのです。ですから材料のほとんどは山から切り出した枝木や蔓です。台車の上に船の形に骨組みを造り幕を掛けて舟形に仕上げます。台車には鳴り物を演奏する人数が乗れるほどでその上層には穂高人形で歴史物の名場面を再現しています。

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上高地/明神池

明神池  穂高神社里宮は安曇野にありますが、奥宮はなんと上高地にあります。古来安曇族は北アルプスを越えて奥宮を上高地に祀ったのです。上高地は今でこそあのように釜トンネルで車で入れますが、それもつい最近のことです。最初にトンネルができたのは大正13年ですからそれ以前はおそらく蝶が岳・大滝山・徳本峠(とくごうとうげ)を利用したのだと思いますが確かではありません。どちらにしても大変なルートです。そして梓川の川辺に立ったときに人々はその眼前に明神池を見つけてその神々しさに敬意を払ったのだと思いますその当時、まだ大正池はありません。大正池は大正4年焼岳の噴火で梓川が堰き止められてできたところです。わずか100年ちょっと前のことです。

志賀海神社

 漢委奴國王」金印で有名な博多湾口にある志賀島は玄界灘に突き出た半島、そこには海神を祀る志賀海神社があります。祭神に表津綿津見神(うわつわたつみのかみ)、仲津綿津見神(なかつわたつみのかみ)、底津綿津見神(そこつわたつみのかみ)の綿津見三神を合祀しています。阿曇族(あずみぞく)によって奉斎されています。宮司の名字は代々阿曇サンです。筑前國風土記には神功皇后が朝鮮出兵の際に舵取りをしたのが阿曇磯良(あずみのいそら)であると記述されている。神功皇后にしても朝鮮出兵にしてもそもそも史実であるのかどうか、在位同定できるのはその後の継体天皇以後のはなし、日本書紀の継体以前は間尺に合わないのが現実ですから、史実として扱うのは危険です。でも伝説の基本パターンはよく似ています。その地の神の子孫がヤマト系の王の手助けをした。その昔は上下関係のある同族だったという記述です。地方豪族を従えたパターンはよく似ています。特に対外関係で史実として検討に値する事件はあちら側の記述も同様であることです。その原因と結果の評価は各々勝手な解釈で成り立っていても史実は変えようがない。白村江の戦いは唐・新羅連合軍と倭国・百済連合軍のその後の東アジアの勢力図を変える一大決戦だったが、負けた悔しさからか日本書紀では昔は勝っていたんだみたいな負け惜しみが滲み出ている。当時は大化改新で有名な中大兄皇子の活躍した時代、唐風の律令体制を模倣していた時代でした。

 

 穂高安曇族の英雄・安曇連比羅夫(ひらふ)は志賀島の阿曇磯良(いそら)とよく似た立場です。比羅夫は白村江の戦い以前から朝鮮半島との外交担当であり、海上交易の専門家であったと記述されています。彼は白村江の戦いで亡くなります。それが9月27日だと云うのです。

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宗像神社

 「海の正倉院」と呼ばれる玄界灘に浮かぶ沖ノ島は宗像大社の三つの宮のひとつ、沖津宮です。周囲4㎞足らずの島に十万点に及ぶ古代祭祀神宝が発見されて国宝や重文に指定されています。半島との関わりで海上交通の要衝にあった島、そこに夥しい鏡や曲玉などがうち捨てられているのか、明解な答えはまだありません。四世紀半ばから十世紀までの六百年間にわたり財宝が奉納され続けたわけです。

海上交通に関わった海人の民である阿曇族?安曇族がこの沖ノ島と無縁だとは思えません。けれども穂高安曇族にその痕跡は見えません。神の系譜が異なるのです。この宗像神社はアマテラス・スサノオ、宗像三女神となっています。穂高神社は綿津見・穂高見・安曇連比羅夫です。古事記と日本書紀ではそれぞれ名称も故事も少しずつ違っています。似たような事例もまるで違う神違う系列で記述されていることは良くあります。志賀海神社の例でも三神,仲津・表津・底津綿津見神です。(穂高神社では綿津見は一神ですが)宗像三宮は沖津宮・中津宮・辺津宮です。みな「津」が使われています。「津」とは海とか海岸地形を表す文字です。相似的な事柄がこの海の民の周辺にはあるにも関わらず、お家の系譜が異なると別のことのようになるのです。しかし、航海の術の長じたこれらの民族が古代史の上でそれも極めて近い、どころかほとんど同地域に居たとすれば、それは同族だったのではないでしょうか。やがて穂高見命は信州のこの地に降臨し、根付くことになるのですからますます謎は深まるばかりです。

宇佐八幡宮と住吉大社

 記紀神話、神代の巻きに登場する神功皇后は九州に夫であり天皇である仲哀天皇の后でありながら国事(朝鮮出兵)にあって百済出兵に奔走する活躍する神話として書かれています。そしてその子、応仁天皇がやがて即位するというわけです。住吉神も海に関係深く、八幡神も海に関連づけられます。神功伝説では史実かどうかは判別不能です。でもその後白泊村江の戦いと極めて似た話です博す。白村江の戦いには海人族である安曇族が伝説の人として登場するのです。

北部九州東西地域

 北部九州には文化の上からも遺跡の分布状況からもけっして統合し得ない状況があります。従来の解釈からすれば北部九州は縄文後期、日本最初の弥生の萌芽とも言える縄文稲作の遺跡が見受けられます。魏志倭人伝の記載には朝鮮半島から対馬を経て伊都国に至る道程がはっきりとしています。まさに邪馬台国に至るメインルートが博多湾岸から西の糸島半島辺りまであたるのです。そこには志賀の海人の本拠地志賀島があります。しかしその一方志賀島のある博多湾岸、糟屋郡から東の地域には宗像氏の影響範囲遠賀川から宗像神社辺りが東地域として西地域と一括りにはできない文化的特徴・歴史を有しているのです。この二つの地域は共に海人・海洋民族集団でした。

玄界灘二つのルート

 朝鮮半島南部に至る海上ルートには現代でも釜山へのフェリーの航路が呼子から対馬厳原経由ルートと小倉から対馬比田勝経由ルートの二つがあります。弥生時代にもほぼそれと同じような航海ルートが二つありました。東ルートは玄界灘海の正倉院と呼ばれる沖ノ島を縄文前期以降、航海の安全上を祈る祭儀的性格のものでした。しかし4世紀頃から祭儀遺跡も目を見張るほど急に目立ち始めます。宗像海人の力が増してきたのです。宗像は東の周防灘・瀬戸内海を経て吉備・ヤマトに通じています。かたや西ルートは魏志倭人伝のメインルートであるにも関わらず次第にローカルルートになっていきます。その契機となったのは「磐井の乱」527年(継体21年)で破れた九州側が糟屋の屯倉をヤマト側に献上してからです。糟屋郡には志賀の白水郎安曇海人族があります。その後安曇海神族は白村江の戦いにヤマトの将軍として唐新羅の連合軍に敗れます。

その後の安曇族

 安曇比羅夫の末裔はヤマト朝廷の中で内膳部として資料にかいま見られます。内膳司設立当初は高橋氏、安曇氏がな奉膳として両氏が内膳の司を管轄していたのだが、両氏の対立から安曇氏が負け、断絶した。

マンモスハンター シベリヤ2万5千年前

寒冷地適応した原アジア人の遺跡、マリタ遺跡からマンモスを追って、シベリヤ各地に拡がっていった狩猟採集を糧とする人々はアラスカからアメリカ大陸へ、樺太へ、中原へとたどり着いていったと思われています。まだ塞がっていなかった日本海を越えて日本列島へも来たかも知れません。中国に至った民族は南方から来た海洋民族と接触していたと考えられます。文化の衝突が新しい文化を築いていった礎となったことでしょう。東アジアでもっとも早くに文化が栄えた中原でやがて人口が増え、朝鮮半島、日本列島にも文化を伝えたのです。狩猟・採集から定着型の民族と変貌していくのでした。やはりそこには稲作という技術が武器となったのは無理もないことでした。揚子江流域から会稽を経て朝鮮半島南西部、そして北九州へ稲の道は伝わったのです。一方で日本海北部との交易は縄文時代も引き続いて行われていました。縄文人に北方的要素が少なからず垣間見えるのは無理のないことです。

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