むかしむかし、黒木沢近くに住む年寄りばあさんが中風となり、体も不自由で幾分痴呆にもなった。人々はあのばあさん狐に取り付かれて気がふれたと噂するようになった。
家の人たちはばあさんを正気に治したいと散々思案のあげく御嶽教に教えを乞うたところ、 「子安の近くの悪神が取り付いている。このままにすれば悪神が益々増える、これを祓うには違う神様を祀ればよい」 と告げた。
お告げに従い家の人たちは、子安にお稲荷様の祠を安置してお祀りした。これにより、病気も治りお家
も繁盛したと云う。
 また、黒木沢の水神様も迎え両祠に屋根をかけてお祭りしてお家の安泰を願ったと云う。
 更に、身を寄せていた松本集落の鍛冶屋さんの家神である才蔵様と水神様も招き末永く信心されている。才蔵名は鍛冶屋の襲名であるが新堰開削で開田事業の先駆者と称えられる横川才蔵もその一人である。
 子安のお稲荷様は、まさに敬神崇祖の古き良き時代の縁起といえる。

子安のお稲荷様

曹洞宗 宝降山 玉泉寺

中谷大宮諏訪神社

高野山真言宗 西水神宮寺

融通念仏碑

十二様

阿弥陀如来像

子安神社

中部日本にかけては山の神様の別称に 「十二山の神」 があり略して
「十二様」 とも言われ、一年に十二人の子供を生む女神だとする説や、
農事に深い関係のある 季節を司る神の説があり、豊穣多産が山の神と
むすびつかれている。 ここの十二様は 「いぼの神様」 で、置いてある
石でいぼをこすると治る神様です。

 瑞穂公民館に安置されている。坂東三十三所観音像・秩父三十四所
観音像本尊 阿弥陀如来像は、田原家の先祖が京都まで行って求め
安置された。 坂東秩父合わせて六十七体ある。土谷の中通観音堂に
西国三十三体所観音があり 合わせると 百体観音となる。

子安様の社は木花開姫を祀っている。富士の神浅間神社に
まつられており子宝、安産の神として信仰されている。祈願す
る人はさらしに願い事を書いて奉納し大竹で柄杓を作りお参
りし、柄杓の底を抜いてお腹の子供が容易に生まれることを
お願いするとされている。

1830年に建立されたハングルに似た謎の文字で書かれた高さ
2.6m 幅 1.3mと大型の碑である。いくたりかの人が解読に努力
したが今のところ未解読である。呪文の文字とみるなら「神代文
字(アヒルモジ)の変形」と考えることも可能である。この文字が
意図するものは、書手と葛草連集落の信仰集団とが、内部的に
了解し合った秘呪のための文字と考えられる。

創立は、宝亀5年1200年前と伝えられている。その昔中谷大宮
諏訪神社の一切の行事等を掌られていた。神社の紋所は「三つ巴」
で天照大神、須佐之男命、月読命の三神に形どり、神社との関係を
あらわせている。
その他、文久4年の禁札を見ても松本藩との関係がよく分かる。

                  (出雲系の神 建御名方冨命)
本神社は、文亀年間(1600年代)に現在遷しと言われ小谷七ヶ村
の総鎮守にして小谷総社と称し諏訪大社下社との関係が深く7年
毎に使(神官)が戸土の諏訪神社の神木に打つ薙鎌神事、薙鎌神
事が行われないと諏訪の御柱は開催できない。
県無形民俗文化財の狂拍子、奴おどりが例大祭で行われる。

文明年間の開創と言う伝承と、天文年間(1532〜54)飯森日向
守盛春が開基となったと、伝承とがある。永禄年間(1558〜69)
武田信玄が寺領十貫匁を寄付したという伝承もある。本堂裏
150m地点に平倉城主飯森日向守十郎盛春公の墓所がある。
武者姿で葬ったと伝えられる。